戦  間  期  論  (2)      2017年2月

1. イスラム国がサウジアラビアを征服し、王家と枢要な政府軍部幹部を処刑した後、国民を自由民と奴隷に選別する。自由民の内、イスラム国に忠誠を誓う者は政府幹部に登用され、そうでないものは人頭税を課税される。異教徒と異民族は奴隷に落とされ、市場で売り買いをされる。白色美人は高価で取引される。異教徒とはイスラム教以外の者に限らず、イスラム国の国教に異端する者も含まれる。シーア派はすべて異端と見なされる。
 サウジアラビアを征服しその巨額の富を奪取したイスラム国はシリアとイラクを併合する。シリアとイラクにはイスラム国の同調者が多く、征服に手間はかからない。シリアのアサド大統領は逃亡するか処刑されるかしかない。
 サウジアラビア+シリア+イラクに成長したイスラム国はイランを攻撃する。スンニ派とシーア派の決戦である。1980年から1988年までイランイラク戦争があった。イランのホメイニとイラクのサダムフセインは九年間死力を尽くして戦い、双方140万人の戦死者を出している。この間イスラエル空軍機が1981年イラクの建設中の原発を爆撃している。戦況は膠着し、最後は痛み分けで1988年に停戦している。1989年イランのホメイニは死亡し、1990年イラクのフセインはクウェートに侵攻し湾岸戦争となるが、彼は墓穴を掘った。湾岸戦争はクウェートの石油資源を略奪することが目的であり。国際法が禁止する侵略戦争そのものである。日本軍は1941年オランダの支配するボルネオの石油を略奪する為に同じことをした。侵略戦争など当たり前のことなのである。
 イランは水爆を保有している。水爆保有国同士の最初の正規戦争となる。放射能の恐怖に恐れる方が負けとなる。信心の違いが勝敗を分ける。イスラム国の水爆搭載自爆戦車の突撃にイランは負けるであろう。イランはホメイニ革命の前から西欧化が進んでおり、指導者はイスラム教ごりごりであるが、大衆には世俗知識が普及しており、水爆攻撃に逃げるだけの知恵はある。
 かくして、イスラム国は サウジアラビア+シリア+イラク+イラクに成長し、金と石油を手に入れ、盤石な国家財政を確保する。
 こうなると、エジプトなどは攻めなくてもイスラム国にすり寄ってくる。チェニジアもリビアも同じである。
イスラム国はアラブに広大な面積を獲得し、イスラム国経済圏を建設する。しかし、欧米は貿易停止処分をして経済封鎖をする。欧米はイスラム国の産出した石油を買わない。アメリカと北海とロシア産の石油と自力再生可能エネルギーで賄うことにするから、イスラム国は外貨獲得の手段を失う。自動車の修理工場は建設できても自動車製造工場は建設できない。イスラム坊主と軍人ばかり幅を利かせているから、実業家とか技術テクノクラートが育っていないのである。政治形態は500年前と同じく宗教封建政治である。近代市民革命も産業革命も未経験だからである。イランの水爆開発者を捕虜にして水爆の生産を強制するが、水爆の基礎産業が未熟であるから、前政権以上の水爆は完成できないし、取り分け高度な科学技術を必要とするミサイル開発には失敗する。一つ二つできたとしても、経済的大量生産には失敗する。
 欧米と日本中国からの経済封鎖により、イスラム国は窮地に至る。奴隷を売ると言っても、国外には買い手がいないのである。アフリカでは買い手がいるが、相場低迷により買いたたかれる。国内の買手も労働力過剰のなかで先細り、奴隷価格は急落する。放牧業が基本だから、農業も工業も発展できない。ならば他国を征服してその富を奪い、奴隷として働かせることで経済を成り立たせようとする。イスラムでは此のやり方を1500年間国家の商売としてきた。
 かっての中世のイスラムでは、東西の貿易の中継地として栄えていた。唐とローマのシルクロードの中継貿易で、バクダットには東西の知識が集まり、数学、天文学、医学、印刷術が発展した。当時のイスラムは外国知識の吸収に熱心で有り、ギリシャ哲学の翻訳が熱心になされ、イスラム語のギリシャ哲学が西欧へ輸出され、やがてルネッサンス文化を開いたのである。ギリシャ文化はローマを経由して西欧へ伝播したのではない。

 イスラム国は行き詰まりのなか、何処に活路を見いだすか。
 イスラム国がイランを征服すれば、アフガニスタンはアルカイダが支配しているから世界征服路線に同調し一体となるであろう。アフガニスタンの北東はカスピ海とトルキスタン、ウィグルである。ロシアと中国が目の前である。
 イスラム国はロシアと中国とどちらを征服の対象とするであろうか。
 中国である。

2.何故、中国なのかという回答を示す前にイスラム教の特質を述べる。
 日本人から見ると、イスラム教は不思議というしかないが、それは一神教と多神教の違いに日本人は気がついていないことに由縁する。日本人は、無神論者か多神教徒であり、後者は常に他の神の存在自体を認める。そこに宗教に対する寛容と融和性が生まれる。
 イスラム教は一神教であり、アッラー以外の神の存在を否定する。たんに否定するのみならず、肯定する異教徒に対して聖戦を挑まなければならないと経典に書いてある。聖戦の結果は、処刑するか、奴隷にするか、人頭税を払わせるか、ということしかない。他者への寛容の精神がないのである。
 イスラム教は、民族宗教というよりも、部族宗教と言った方がよい。アラブ民族という範疇は存在しない。アラブ民族だから団結できるということは対イスラエルだけで用いられる論法であるが、これ以外通用できない。
 血統主義があるが、ねじくれた歴史経過をたどっている。開祖マホメットには直系男子はいなかった。娘婿のアリーがおり、これは何代か続いたがやがて途絶えた。シーア派では、単にお隠れになっただけでいずれ現れると言っている。マホメットの子孫は絶えたのに、血統主義だけは長続きした。マホメットの高弟の子孫が各派を独立させ、それを子孫に継承させるという血統主義が続いた。
 そして各派の争いは激しく、各派は相手を異端と呼びつけ、すさまじく醜い殺し合いを長く続けてきた。
 蒙古ジンギスカンが中国唐を滅ぼし、ウィグルを経て、カスピ海を南下した。1219年サマルカンドを占領し、ホラムズシャー朝を滅亡させた。降伏勧告の使節を殺されたことに憤激したモンゴル軍の報復は激しかった。1258年にはバクダットが陥落し、市民は全員殺されたのである。バクダット王ムスターシュは革袋に詰められ馬に引かれて殺された。モンゴル人は貴人を殺すときは傷つけないように配慮する習慣があった。
 この惨劇の結果は広く西方へ伝えられ、その後のモンゴル軍の進撃はイスラムの降伏で迎えられた。モンゴル軍の進撃はエジプトで停まり、後はカスピ海からロシア、ポーランドまで北上するが、モンゴルのスキルタイ皇位継承会議のために中断する。
 モンゴルはイスラムを軍事占領するが、ここからのモンゴルとイスラムの関係進展が不思議である。モンゴルは主にチベット仏教であるが、ネストリウス派キリスト景教もいた。しかし、モンゴルはイスラムに改宗を求めなかった。反対にモンゴルがイスラムに改宗してしまうのである。チベット仏教は多神教である。多神教故に融通が利くというか、民衆支配のためには改宗などどうでもよいというのか。少なくともイスラム教徒には理解できないことであるが、キリスト教式結婚式と仏式葬式に違和感がない日本人には理解できる。
 とこかく、占領者が突然イスラム教に改宗してしまったのである。ローマ帝国がキリスト教を禁圧しながらやがて国教とした例もある。
 占領政策では、占領者モンゴルの改宗の他に、イスラム人との婚姻政策がとられ、イスラム伝統の血統主義が利用されていく。三代もたつと、占領者モンゴルがイスラムに変貌してしまうのである。これは満州族清が中国を支配してから漢民族化していったことと似ている。
 モンゴルのチンギスハンは1206年中国を征服し元を興した。1368年漢民族の明が興り、元は北の草原に戻り北元となる。
 その頃、イランを支配していたティムール帝国のティムールは元に続き明にも貢納していたが、1398年北元からの使者から明攻撃元復権の通報に接し、元を復興させ明を滅亡させるために1404年20万人の軍を率いてサマルカンドを出発するも1405年途中のタシュケントで病死して遠征は中止となった。
 血統的にはイスラム人のティムールはジンギスカンの子孫と名乗り、モンゴルの貴族の娘を皇后に迎え、イスラム教を信仰するが、イスラム教を布教するため、コーランか死か納税かをスローガンとして、明まで攻め入ることを決意していたのである。
 イスラムとモンゴルの出会いが、新たなイスラムを産んだ。
 イスラムの争いは内部的には徹底的殺し合いであったが、他民族他教徒に対しては納税を条件とする融和なもの(殺さないという意味だけ。納税を拒否すれば、処刑か奴隷か)であったが、モンゴル族との戦いを通じて皆殺しを体得するように変化した。
 選民思想がイスラム教の本質である。一神教に共通することではある。アッラーにより選ばれた民だからこそ、異教徒を征服して改宗を勧め、拒絶されれば殺してもよいのである。イスラム国のテロリストはこの選民思想で爆弾を破裂させるのである。
 選民思想には、他者の存在と思想の自由を認めない。異教徒には死しか与えない。

3.日本人にとって、平和主義、民主主義、人道主義、人権思想、宗教の自由は普遍的で有り、疑いもないと思っている筈です。それらの人は戦後教育を受けられた人たちだけのことであり、90歳以上の老人に聞いてご覧なさい。知らない、忠君愛国なら知っているとの回答を得るでしょう。大正時代に大正デモクラシーが広がり、昭和初期に普通選挙が施行され日本に民主主義が広がろうとしたが、日中戦争開始と共に民主主義は軍国主義により死滅した。国民の中で誰一人戦争反対をいう者がいなかったし、フランスドゴールのように反乱軍を組織するものはいなかった。降伏反対で決起した反乱軍は8月15日にいたが、天皇の降伏直後によりすぐさま霧消した。戦争遂行でも降伏でも天皇の一言でことが定まり、国民一人一人の意見は生まれなかった。太平洋戦争中日本はイスラム国と同じで、神風特攻隊の精神はイスラム国テロリストと同じである。 
イスラム国において平和主義、民主主義、人道主義、人権思想が知られていないことは明らかです。欧米に留学したイスラム人は知っていますが、イスラム大衆は知ることはありません。五〇〇年間カスピ海からエジプト・リビア・スペインまで征服し、コーランか死か、奴隷か納税かと叫んだマホメットとその使徒たちの英雄談の記憶しかないのです。
日本人は文部省から日本史と西洋史しか教えてもらっていません。アラブ史とアフリカ史は教えていません。
民主主義、人道主義、人権思想とは、19世紀末から20世紀初頭に結実してすぐに枯れた美しい花だったのです。平和主義はもっと遅くなります。
民主主義、人道主義、人権思想、宗教の自由の生えの始まりは、1518年マルチンルターの始めた宗教改革です。最初はカトリックとプロテスタントの激しい殺し合いが続きましたが、殺し合いに飽きた頃、旧教徒カトリックが新教徒プロテスタントの存在を容認したことから、宗教の自由が公認され、さらに思想の自由へと発展していきます。勿論歴史の進展は紆余曲折します。宗教の自由は14世紀から17世紀にかけて吹き荒れた魔女狩りで頓挫します。しかし18世紀には魔女狩りも治まり宗教の自由が確立され、異端のプロテスタントが公認自由化されます。次いでユダヤ教も欧州ではその存在が容認されていきます。
 民主主義、人道主義、人権思想の走りは1789年フランス革命です。封建神聖絶対王国フランス王国での市民革命です。ここで初めて、民主主義、人道主義、人権思想が謳われますが、事実は異なるもので、ルイ王夫婦のギロチン処刑から始まり、ロビスピエールによるギロチン大粛正では博愛主義は吹っ飛びましたが、ロビスピエール自身の処刑によりフランス革命はその後いささか平常心を取り戻すこととなる。英国ではフランスと同じく国王を処刑するという革命が続いていたが、英仏共に王政ではなく、市民の民主主義政治が普及していくようになり、これがアメリカに伝播し、アメリカ独立戦争へと進むのである。
 民主主義、人道主義、人権思想は英仏米から発したが、イスラムに伝播することはなかった。従ってイスラム国に対して民主主義、人道主義、人権思想を説いても無駄なことである。他国を征服してはならないと説いても、それはイスラムの1500年間国家の商売の伝統に反することなのである。産業革命は民主主義、人道主義、人権思想の母体であったが、イスラムでは発生することはなかった。アジアとヨーロッパの狭間にあるトルコは違っていた。ローマ帝国の故地で有りキリスト教徒が多く残り、オスマントルコ帝国に支配されるとイスラム教が国教とされた。1922年オスマントルコ帝国が崩壊すると、ムスタファケマルが大統領となり、議会主義と政教分離の西欧化を進めたので、イスラム国の攻撃対象となる。
 産業革命は、農本主義から工業主義への転換を図るものであり、農民の質的低下を導くものであったが、英仏にしても農業の破滅を導くものではなかった。国内産農業は国家安保上不可欠なのである。英仏独を見よ。未だに農業は基幹産業であり、農地は国土を占めている。産業革命は大量の労働者を生み出したが、市民革命により1票の選挙権を持つ労働者を大量生産し、資本家の国家支配を許すものではなかった。むしろ、この後登場する共産主義者に一場の乱の機会を与えることとなるが、人類としては壮大なる損失の結果に終わった。20世紀は共産主義が生まれ、発展し、消滅する世紀であった。
 宗教改革、市民革命、産業革命が19−20世紀のキーワードである。
しかし、イスラムにとっては、知らない話である。日本人にとっては、関ヶ原の1600年から何の変わりもないと思って間違いはない。織田の後、豊臣が、次いで徳川が支配したように、この500年イスラムは封建戦国時代を過ごしたのであり、宗教改革も市民革命の産業改革も知らなかったのである。だから、イスラム国に対して民主主義、人道主義、人権思想を問うこと自体無意味であることを知らなければならない。
 
4.次に平和主義と博愛主義について論ずる。
 イスラムではこのような甘っちょろい考えは否定されてきた。異教徒は殺さなければならない、改宗を責めても肯定しない者には処刑しかない。生かす理由がないのである。
十字軍との長年の戦いにより、イスラム国は戦争に、平和主義と博愛主義などあり得ないと信じている。
十字軍との戦い(1096年〜1291年)は、イスラムにとって突然の攻撃であった。これまでキリスト教徒のエルサレム参拝を容認してきたのに、聖地回復を願う英仏国王の野望と征服商売を願うイタリアギリシャ商人が組んで攻撃して来た。イスラムは無益な犠牲を強いられた。イスラムにとって十字軍の攻撃は忘れがたいものであることを、今後の中東政治対策で銘記すべきである。イスラム国テロリストは十字軍への復讐と誓って自爆テロを敢行するのである。
 読者には、何百年前のことを覚えているのかと問う意見があると承知するが、回答はあると答えます。たとえば、ユダヤ人は未だにエルサレムはユダヤ人の故地と言う3000年前のつけを覚えており、その履行を請求しているのです。
 平和主義と博愛主義はいつ生まれたのか。
 実に新しいことです。アレキサンダーもシーザーもマホメットもジンギスカンも徳川家康もレーニンも毛沢東も知りません。
 征服と独裁、強姦と強盗、処刑か奴隷か、勝利者にとって当たり前の収穫です。負ければ死という結果しかありえませんから、壮大なる博打勝負なのであり、古来博打戦争は当たり前のことです。
 1789年フランス革命のとき、自由平等博愛とスローガンされましたが、実態は嘘話で、ギロチンが猛威を振るったのです。
 敵は殺す。当たり前のことです。それが敵兵傷病兵や捕虜を保護するという思想が芽生えたのは19世紀の西欧のことです。
 それまで戦場で負傷する敵兵を発見したときはとどめを刺すのは当たり前でした。降伏した敵兵の処置は並べて銃殺です。
 日本でも同じことで手柄は持参した首級の数によりました。

 クリミヤ戦争でナイチンゲールは看護婦でしたが、敵兵の看護にも尽力しました、
スイスのアンリ・デュナンは1859年北イタリア戦争の悲惨を目撃し、1863年国際赤十字委員会を発足させた。ここから、平和主義と博愛主義が生まれたのです。1864年傷病兵の保護を目的とする赤十字条約が出来ました。
 続いて、1899年ハーグ条約が締結されます。この時音頭を取ったのはロシアのニコライ二世です。日ロ戦争直前の大津事件で日本警察官に殺されかけた人です。ハーグ条約は捕虜の保護、残虐兵器の禁止、非武装都市への無差別砲撃爆撃の禁止が規定されており、人道主義博愛主義が広まり始めたのです。しかしこれは欧米限りのことで、イスラムは知らないことでした。
 日本もハーグ条約を批准していますが、日本最初の国際戦争である日清戦争は1894年〜1895年でしたので批准前です。日本軍は旅順城を攻略しましたが、城門に日本斥候兵の生首が晒されているのを見た日本兵は激高し、女子供を除く清国人を兵士か民間人を問わず殺害したことがあった。
 1904年〜1905年の日露戦争では日露共にハーグ条約が厳守された。ロシアの捕虜は日本国内の収容所に、日本の捕虜はモスクワ南部の収容所に保護されたが、両国共に待遇は良く、士官には給料が支払われ、使役をした兵士にも労賃が支給された。旅順の防衛司令官ステッセル将軍等高級士官は降伏後すぐに中立国船に乗せられ、ロシアへの帰国を許された。帰国すると軍事裁判にかけられ死刑判決を受けるが、恩赦で助命された。
 かくして、日露戦争ではハーグ条約の博愛主義が厳守されたのであるが、その次の国際戦争である第一次世界大戦ではどの国も反故にした。残虐兵器の毒ガスが使用され、非武装都市への砲撃と爆撃がなされ、非戦闘員民間人に多くの犠牲者を続出させた。ヒトラーも毒ガスで一時失明した。ハーグ条約の音頭取りのニコライ二世はロシア革命の中でレーニンにより一家七人ともに銃殺されている。フランス革命では皇帝夫婦がギロチンで処刑されたが、レーニンは子供5人も殺したのである。
 第一次世界大戦後、戦争禁止の国際世論の高揚の中で、戦争禁止の国際条約が次々と締結された。
 1928年には、不戦条約が締結され、日本も批准している。国家政策の手段としての戦争を放棄すると宣言されている。
 1929年には捕虜を保護するとのジュネーブ条約が締結され、日本は調印したものの陸軍は批准を遅延させたまま太平洋戦争に突入した。日本軍は捕虜を出さないから敵の捕虜の保護は必要ないと陸軍が主張したからである。負ければ切腹して陛下にお詫びすることを陸軍の美風としたのである。しかし、1942年アメリカはスイスを通じてジュネーブ条約を批准するか否かの照会をし、東条英機は「批准しないが、主旨を準用する」との回答をした。その結果、戦後の戦犯裁判では捕虜虐待がジュムーブ条約違反との訴追の理由を与えることになった。
 これらの条約はヒトラー、スターリンにより破られ、次いで、日本、英米も破った。最悪の違反者はトルーマン大統領であった。
 第二次世界大戦では第一次世界大戦よりもっと酷かった。
 英軍がドイツの非武装都市を無差別爆撃を開始し、ヒトラーもVロケットで応酬した。スターリンはカチンの森でポーランド将兵捕虜を皆殺しにした。ドイツ軍は英仏米の捕虜に対しては寛大であったが、ロシア捕虜に対しては過酷に扱い、ユダヤ人とか少数民族を殺した。
 アメリカはドイツと日本の非武装都市を爆撃し、最後には原爆を投下した。世界がハーグ条約の博愛主義を蹂躙したのである。今日、イスラム国がどんな残忍なテロを連続さても、世界は非難できないし、イスラム国の自爆テロを見て、信じられないとか人間のすることではないと非難しても、効果はない。かって日本がした神風特攻隊と同じことをしているだけである。イスラム国のテロに対して正論で非難することは無駄である。対テロ戦争を準備し勝利するしかない。
 日本は無通告で太平洋戦争を仕掛けた訳で、戦争を禁止した不戦条約に違反する開戦であった。英米のアジア支配から解放するとの大東亜戦争の大義を掲げたが、侵略戦争であることは間違いがない。アジア占領地で獲得した資源の対価をアジア諸国に支払ったことはないからである。特にフィリピンはアメリカから1945年の独立を承認されており、日本が1941年にフィリピンを解放しに行く理由は全くないのである。
 ただ、日本が誇れることは非武装都市への無差別爆撃をしなかったことである。アメリカ本土でもハワイでもマニラでもしなかった。だからアメリカ市民の戦死者はいない。 ただ例外は1945年5月北米オレゴン州に到着した日本軍の発明した新兵器風船爆弾は森林火災を目的とするものであったが、地面に転がっている風船爆弾に触れたハイキング中の牧師一家7人を死なせたことはあった。アメリカ非戦闘員市民の死者はこれだけである。日本民間人の死者は50万人である。
ただ、日本軍の日中戦争時の重慶爆撃が非戦闘員に対する無差別爆撃と非難されている。これは重慶市内の政庁舎、駅舎線路、軍隊集結地を狙ったものであり、非戦闘員市民を狙ったのではなく、爆撃の規模も96式陸攻とB29とでは爆弾搭載量からして比較にもならない。
 イスラムの人々は、19世紀〜20世紀の国際法の平和への進展と挫折、ヒトラーとスターリンとトルーマンの大虐殺を横目に見ながら、イスラム教の信仰を続けてきた。北半球は悪魔の支配する地域だからイスラム教により征服しなければならないと確信を抱くのも当然であろう。
  
5.何故、イスラム国は中国を目指すのか。
 この設問は500年単位の話であることをまず銘記されたい。
 イスラムとモンゴルの他民族・異教徒を統治するやり方に共通点が多い。
 用語の説明をする。
 中国・・・黄河と揚子江の周辺の漢民族の故地、地域用語
 中華人民共和国(略して中共国)1949年毛沢東建国の漢民族中国共産党独裁国家
  その支配領域は中国を超えて、満州族の満州(東北地方と最近は言う)、チベット、東トルキスタン、ウィグル、新疆、内モンゴルを含む。 この領域は満州族の清の最大支配領域であり。漢民族の支配域を三倍増する。チベットはチベット族の故地、ウィグル・新疆はイスラム族の故地、内モンゴルはモンゴル蒙古族の故地である。

 イスラム国が中国を征服対象に選ぶことには下記の理由がある。
@ おいしい国(羊大)である。征服対象にふさわしい。中華人民共和国が建国されて68年、重工業から軽工業、農業、牧畜、商業が発展しており、この域内での完結した経済が可能である。漢民族は他民族に支配統治されることに歴史的に慣れている。
A 漢民族の中国は、このように王朝が変遷している。
 夏→殷→周→秦→漢→三国時代・魏・呉・蜀・晋→南北朝・魏・斉・宋・晋・梁・陳 →隋→唐→遼・金・夏・宋→元→明→清→中華民国・中華人民共和国     
これら国々の内、漢民族の国家は、漢と明と中華民国・中華人民共和国だけである。宋は漢民族であるが地方政権だった。
 ほとんどの時代は漢民族以外の民族に支配されていた。
夏→殷→周→秦は、満州や内モンゴルを故地とする王朝で漢民族を征服した。漢民族の劉邦高祖は初めて漢を建国するが、常に匈奴に脅かされ、匈奴に女と絹を貢納させられた。北匈奴は西方へ去り欧州でフン族と呼ばれ、378年ローマ帝国ウァレンス帝を敗死させる。451年西ローマ帝国と北仏トロワイエで戦闘。
 南匈奴は鮮卑系を集めて三国時代、南北朝時代と激しく戦国を争い、鮮卑系の楊堅が581年隋を建国する。
隋は618年滅亡し、鮮卑系の李淵が唐を建国する。安禄山将軍は755年反乱を起こすが、ペルシャ系ソクド人である。その頃の中央アジアを支配していたイスラムアッパース朝と西へ遠征していた唐軍とが751年タラスの戦いで衝突し、唐軍は大敗し、戦死者5万人、捕虜2万人をだす。この捕虜の中にイスラムへ製紙法を伝えた漢人がいた。
 かくして、中央アジア・新疆・ウィグルはイスラムが征服支配するところとなり、イスラムの故地となった。現在でもこの地域にイスラム教が続いていることはこの征服に由来する。中華人民共和国は中央アジア・新疆・ウィグル・チベットを領土と主張しているが、満州族の清の最大版図を僭称するもので、漢民族の勝手な言い分である。
 唐は907年滅亡し、遼・金・夏・宋の鼎立時代となる。唯一の漢民族の宋はモンゴルに追い立てられ南に逃げて南宋を建国するが、1279年モンゴルの元に滅ぼされる。
 モンゴルのチンギスハーンは中国に侵入し、1271年大都北京に元を建国する。南宋の漢民族は捕虜とされ、日本征服派遣軍に編入されるが、九州で惨死する。
 モンゴル軍は西方へ遠征し、イスラム諸国を征服し、反抗するイスラムには徹底的殺戮をおこなった。モンゴル人は貢納する限り宗教には寛容で有り、北京にはネストリウス派景教が伝わったし、ローマ法王の使節も1294年北京に到着している。
 モンゴル帝国は世界各地に分国され、中央アジアを支配したモンゴル人はイスラム教に改宗する。ティームール帝国はモンゴル人の国であるが、イスラム化し、ティムールはジンギスカンの子孫と名乗り、イスラム教を弾圧する明を攻撃するため大軍を率いて中国へ向かうが、途上の1405年病死して遠征は中止となる。その頃、大都を放棄して北へ逃げた元は満州からモンゴル地方で北元を建国したが、何度も明と戦争している。漢民族の明は戦争に弱く何度も敗れている。明の第6代英宗王は1449年土木堡への遠征のさなか北元軍エセン王に捕らわれ1年間捕虜生活を強いられたが、莫大な貢納品と女と引き替えに釈放された。帰国すると腹違いの弟が帝位に就いており困ったことになったが、たまたま弟が病死したため、1456年復位ができた。
 漢民族が異民族に占領され統治されていたことは、中国の歴史の大半なのである。明は満州族の清に滅ぼされ、100万人の満州族が数千万人の漢民族を統治した。漢民族は戦争に弱いのである。またすぐ敗戦主義者の裏切り者が出る。
 1628年明末に大飢饉により反乱が起こり、李自成が1644年北京を攻撃すると、皇帝崇禎帝は自殺し明は滅んだ。山海関に駐屯していた呉三桂将軍は瀋陽の清朝に援軍を申し込み、連合軍は北京を落とす。李自成は逃亡するが、明の朝廷百官は今度は清朝順治帝に仕えるのである。男は喜んで弁髪も受け入れた。女は旗袍チーパオというチャイナドレスを喜んだ。征服者に畏服するのが漢民族の習わしである。
 匈奴もウィグルもモンゴルも満州族も分断統治がうまい。戦争で漢民族の降将が出ると手厚く待遇し妻妾を与えて帰化させ先陣を任せる。失敗すれば死刑だから必死に戦う。漢民族の将軍は裏切りの誘いに甘い。漢民族の戦争の歴史は裏切りの歴史である。稀に裏切りの誘いに乗らない将軍には罠を仕掛ける。あの将軍は敵に通じているとの噂話をまき散らし、信じた皇帝に処刑されてしまう。清が明を攻めたとき、清のヌルハチは袁崇?将軍が清に内通しているとの噂話をまき散らし、袁崇?将軍は皇帝から凌遅の刑を受けている。長く苦しませて殺す処刑である。漢民族は同族を信用していない。だから異民族を重用する。科挙による文官、選抜の宦官、降将の軍官に異民族が多かった。これらが権勢を振るい王朝を侵奪することとなる。
 このように、モンゴルとイスラムは、751年タラスの戦いと、1405年ティムールの明遠征により、新疆・ウィグル・中央アジアはイスラムの故地と理解しているし、モンゴルの元が支配した中国全体の征服を合法化しうると考えている。なにしろ、中国国共内戦時代にウィグルのイスラム教徒騎馬隊は長征中の中国共産党新第4軍と戦い全滅させた経験がある。とりあえず、イスラム国は、新疆・ウィグル地方のイスラム人を組織し、中華人民共和国に対する反乱と独立を企画し、水爆と膨大な資金力と死を恐れぬテロリストによる攻撃を始めるであろう。そしてチベット仏教のチベットも立ち上がり四川省と甘粛省に攻め入るであろう。中国共産党は大敗し、中国北部を失い、元に攻められた南宋にように中国南部に移動し、台湾の中華民国に支援を求めなければならないこととなる。何でも寿命がある。ソ連は1917年〜1989年の寿命が尽きて滅亡したのである。中華人民共和国=中国共産党の寿命は1949年〜で、もう後がない。
 中華人民共和国が新疆・ウィグル・チベットまで領土と主張する理由は、清帝国の領土を引き継いだということである。しかし、清帝国は満州族であり、漢民族ではない。漢民族の故地は黄河と揚子江周辺に限られるべきである。新疆・ウィグル・チベットはそこを故地とする民族の国家の領土とされるべきである。新疆・ウィグル・チベットに独立民族闘争が始まり、それに勝利すれば国際的に独立は承認されるであろう。
 清国領土の全部を中華民国と中華人民共和国が継承したのではない。モンゴル共和国は元々清国領土である。1911年辛亥革命の混乱の中、モンゴルのチベット仏教指導者ジェブツンダンバ8世が清国から独立しモンゴル国皇帝になった。これが現在のモンゴル国として中華人民共和国からもロシアからも独立を維持している。新疆・ウィグル・チベットもこの例を習うであろうし、イスラム国はさらにモンゴル元時代にイスラム教が伝播した青海省・雲南省にも中国共産党への反乱を起こさせるであろう。
 中華人民共和国は海洋政策を採り、日本、フィリピン、ベトナムの領海奪取を企画しているが、西の砂漠から襲うイスラム国が中華人民共和国を滅亡させるであろう。

B イスラム国は中国統治の方法を熟知している。伝来の方法以外にモンゴルから教えてもらったことも貴重である。
 イスラムの征服支配のやり方は、モンゴルと同じで、恐怖による服従であり、民衆の宗教と商売には制約をしないことである。服従して人頭税を貢納すれば済ませるのである。異教徒や異民族は貢納しなければ奴隷として売ることも認めている。美少女は高く売れるし、頑健な男子は労働力として売れる。
 欧米日本では奴隷売買など昔話と思うが、イスラム国では奴隷解放のアメリカ南北戦争など体験しない話である。マホメットの時代にあったことはすべて許されるし、また継承しなければならないことである。
 イスラム国では血統主義が濃い。マホメットの高弟の子孫が各宗派の指導者に推戴されている。だから、その子孫同士にとって婚姻政策は重要事である。
 異民族、異教徒の子供を奴隷に取り、イスラム教徒に教育し、文官や軍人にしたてる。優秀な奴隷は自由民になる例が多く、奴隷軍人が王朝を乗っ取り、元の雇い主の妻や娘と婚姻して皇帝となった例が多い。
 中国での宦官や科挙の制度と似るものがある。中国歴代王朝では科挙の登用制度が有り、異民族、被支配階層の子弟でも科挙試験に合格すれば高官への道が開けるし、宦官になれば大奥を支配し闇の実権を振るうことも出来る。
 イスラム国は世界各地で誘拐したり奴隷売買したりしているが、それだけの目的ではない。戦闘員の養成が目的である。テロリストの一本つりもそのようなものであり、イスラム国が国家要員の養成対象として異民族異教徒の子弟にまで広げており、代を引き継がせる教育政策をもっている。カンボジアのポルポトも子供を親から引き離し特殊な教育を施し反対派とベトナム人を殺させた。イスラム国は代を次ぐ長期的戦争を予定している。今は中東だけが戦場となっているが、いずれ世界に拡散していく。
  恐ろしい21世紀になりそうである。
何故、テロリストが生まれるか。日本赤軍のテルアビブ空港乱射事件があったが、あれはイスラエルに対する宣戦布告という純粋な政治目的があったが、現在のイスラムテロリストは貧乏な難民から生まれている。イスラム教への小さな関心から一本つりにあって中東へ行き軍事訓練を受ける。統一教会でもオウム真理教でもそうだが、宗教団体に加入すると、人情がらみとなりなかなか脱退できない。中東からの報道によると、テロリストは高額な給料、奴隷女の提供を喜んでいるようである。その中でイスラム国のイスラム教に疑問を抱く者には処刑をしている。恐怖の鉄の団結が生まれる。幼い子供に爆弾を抱かせて市場へいかせる。
 アウシュビッツでは、ドイツ兵がユダヤ女を強姦してからガス殺し、金歯と恥部に隠し持った宝石を抜き取り、髪を刈って毛布を作った。家に帰れば平凡な父になるドイツ人が平気でしたのである。
 インカ帝国はスペイン人の策略による征服で滅亡した。スペイン型征服は皆殺しにし、持ち込んだ伝染病の力も借りて絶滅させ、アフリカから奴隷を連行し、被支配民族を総替えにして植民地支配を維持する。イスラム国よりも過酷であった。
 アメリカ人は奴隷解放の為に南北戦争を戦ったが、同時期にインデアン部落を襲撃している。
 人類は未だ文明化していない、と言うほかない。
人間を動かす動機は、マネー&セックス&アドベンチャーなのである。そのためには人殺しが合理化されている。これに宗教が加わると、異教徒は殺せとなる。世界史を読めば、すべての戦争は征服戦争といえる。自衛戦争などありはしない。元寇のときは日本にとって自衛戦争であったが、稀なケースである。しかし捕虜にしたモンゴル士官は全員打ち首としている。連れてこられた南宋と高麗の兵士は送還されている。
 新聞を開けば毎日殺人事件の報道である。人を殺してみたかったと言う名大女子大生もいる。
 人間には殺人願望があるというしかない。人間をどうやって文明化させるかが課題である。
 本当は、宗教がその使命を果たすべきであるが、異教徒は殺せの一神教では難しい。 イラクとシリアでは三つ巴の戦争が続いており、最近はイスラム国が劣勢であり、喜ばしいが、水爆を持てば形勢逆転する。英独仏米ロは地上軍を派遣せず空爆に終始しているが、これではイスラム国を絶滅できない。
 頼りはインドネシア軍である。国連でインドネシア軍を国連軍として中東へ派兵し、軍費を国連が負担するようにしたらよい。欧米軍が中東へ行けば、現地では十字軍の再来と見なされ歓迎されない。インドネシアには一億人のイスラム教徒がいる。イスラム教国連軍にイスラム国を退治させるのが名案である。 
 
 ジンギスカンや清のヌルハチが中国を征服したように、イスラム国が中国を征服する。まずは東トルキスタン、新疆ウィグルから始まる。農業から軽重工業まで地域内で完結できる産業経済を征服できる魅力にイスラム国は動かされる。
 イスラム国の活躍を見た金正恩は水爆を抱えている。既に叔父と兄まで殺した。どうするつもりなのか、次回に私の予見を書きます。