戦争の放棄(第9条) | 06/06/29→08/29→12/18 07/08/11「交戦権と中立の思想」追加 |
( 現行憲法 ) 前文 ・・・・日本国民は、・・・・政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。・・・・・ 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。・・・・ 第9条 @日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。 A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 ( 改正案 ) 前文 日本国民は、恒久の平和を念願し、国際連合の平和的役割を強化し、全世界の国家が、核兵器をはじめとする一切の武装を放棄し、あらゆる戦争を究極的に放棄することを、わが国の国際平和政策の目的とする。 第9条 @日本国民は国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、 永久に放棄する。 A日本国民の安全および国土の自衛を目的として、国防軍を設置する。 B内閣は、外国から侵略を受けたときは、国民投票による開戦承認を得て、宣戦布告をすることができ る。本項、第4項第8項の国民投票は、4分の3以上の賛成により承認とする。 C内閣は、外国の侵略が急であって、前項の国民投票を行う時間がないときは、宣戦布告と同時に 国民投票の告示をすることができる。国民投票で開戦が否決されたときは、内閣は総辞職しなけれ ばならない。 D戦時下にあっても、国民の人権は制限されない。特に、戦争の継続或いは停止についての言論は絶対に保障される。 E核兵器・毒ガス兵器・生物化学兵器・対人地雷及び残虐なる兵器は禁止する。 F戦時にあっても、人道主義及び国際法を遵守し、戦時捕虜及び難民を保護し、非戦闘員に対する攻撃は禁止する。 G徴兵制は禁止とする。 H国防軍を国外へ派遣するときは、国民投票による承認を必要とする。 I国防省大臣は、文官とする。国防軍の将校は、選挙での投票を行うほか、政治活動が禁止される。 J国防軍は内閣総理大臣の指揮下にあり、他国の指揮下に入ることは禁止される。 K軍法会議は認めない。戦時中の死刑の執行は停止される。 ( 改正理由 ) @戦争の放棄 A自衛軍の創設 第9条戦争の放棄が、自衛権を放棄し、自衛隊を禁止しているか、議論がある。非武装中立主義者は肯定する。憲法学でも議論の分かれるところであるが、国会で審議されたとき、マッカーサー占領軍司令官の草案は、以下のとおりであった。 「国民の一主権として戦争は之を放棄す。他の国民との紛争の手段としての武力の威嚇又は使用は永 久に之を廃棄す。 陸軍、海軍、空軍又はその他の戦力は決して許諾せらるること無かるべく又交戦状態の権利は決して 国家に授与せらるること無かるべし 」 このマッカーサー占領軍司令官草案と、前記の現行第9条を比較すると、2項の冒頭に「前項の目的を達するため」が入っていることである。帝国憲法改正案小委員会の芦田均委員長の提案によるものであり、「芦田修正」と言われている。 国会での審議は、マッカーサー占領軍司令官提案を対象に始まったが、戦争の放棄は自衛権まで放棄する意味なのか、自衛軍の保持まで禁止されるのか、論争があった。 ( 現行第9条は、自衛隊を禁止しているのか、容認しているのか ) 護憲派の人は、第9条は自衛権も自衛隊も否定していると解釈し、改憲派の人は、肯定していると解釈している。同じ日本語の条文を読んでも、正反対に解釈が分かれるのである。解釈の分かれる原因は何でしょう。 私の結論は、憲法を作った人たちが正しい日本語で誤解の入らないように注意せずに粗雑に作ったのが原因です。最高の日本語で書かれるべき憲法が悪文になっているからなのです。これを憲法第9条悪文説と言います。悪文は正す必要があります。子供の教育にもよくない。どこの国でも、立法家即ち国会議員は正確な国語を理解した文章家でなくてはならないことになっています。しかるに当時の国会議員は文章家としては失格でした。 それはさておき、もう一度第9条を書きますから、よく読んで自分なりの解釈を考えてください。 第9条 @日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。 A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 ウーン。戦争は永久に放棄すると書いてあるし、戦力は保持しないとも書いてある。交戦権の意味は分からないが、とにかく戦う権利は認めない、という意味で書いてあると思われるから、日本語の憲法解釈としては、自衛権も自衛隊も否定した意味なのかなあ、と思われる人もいるでしょうし、反対に、国際紛争を解決する手段としては、戦争を放棄する、と書いてあるから、国際紛争を解決する手段以外には戦争を放棄しないとも読めるし、前項の目的を達するため戦力を保持しないと書いてあるから、前項の目的以外では戦力を保持することになるから、たとえば、侵略戦争ではなく、攻撃されて自衛のために戦争することは許され、自衛のための自衛隊は許される意味なのかなあ、と思われる人もいるでしょう。 日本語読解力テストを簡単にしてみましょう。夫が、 @夫は、健康増進を誠実に希求し、飲酒は、糖尿病を治療する手段としては、永久に放棄する。 A前項の目的を達するため、日本酒、ビール、ワインその他のアルコールは、これを保持しない。夫の 飲酒権は、これを認めない。 と書いて、壁に貼ったとする。 さて、奥方はどう読みますか。 奥方は、「手段としては」などと限定するのは何事よ、いじましいことを書かないで、絶対必ず一滴も飲まないと何故書けないの、少しくらいならいいと言って飲むつもりなのでしょう、とお怒りになるだろう。 要するに、第9条は、第@項で侵略戦争を放棄し、第A項で侵略戦争の為の軍隊を放棄したと解釈されるのです。ただ第9条は悪文ですから、自衛権も自衛隊も否定したと早合点で解釈するひともいますが、それは悪文の憲法が悪いのです。 本来ならば、「自衛のための最低限の戦力の保持を妨げない」とどこかに書いておけばよかったのですが、昭和21〜22年の国会ではこれを書き入れる雰囲気になかったのです。理由は後で書きます。 ( 護憲派の定説 政府憲法解釈変遷説 自衛権・自衛隊否定説から解釈改憲へ) 護憲派の人は、憲法制定当時、政府も国会も皆が自衛権・自衛隊を否定していたが、政府と自民党は朝鮮戦争を契機に、自衛権・自衛隊容認へと解釈改憲を始めた、と言っています。真実は護憲派にあると言う訳です。 この説は、吉田茂首相と野坂参三共産党代議士の国会論戦に根拠があります。 野坂質問 「戦争には正しくない戦争と正しい戦争の二つがある。日本の帝国主義者が満州事変以来起こしたあの戦争は、他国征服の侵略の戦争である。侵略された国が自国を護る為の戦争は正しい戦争である。この意味において中国或いは英米の戦争は防衛的戦争である。この憲法草案に戦争一般放棄と言う形でなしに、我々は之を侵略戦争の放棄、こうするのがもっと的確ではないか」 吉田答弁 「近年の戦争は国家防衛権の名において行われたことは顕著なる事実であります。正当防衛による戦争がもしありとすれば、その前提において侵略を目的とする戦争を目的とした国があることを前提にしなければならぬ。故に正当防衛、国家の防衛権による戦争を認めるということは、偶々戦争を誘発する有害な考えであるのみならず、もし平和団体が、国際団体が樹立された場合におきましては、正当防衛権を認めるということそれ自体が有害である。ご意見の如きは有害無益と私は考えます」 世論は、きな臭い野坂質問よりも絶対平和主義の吉田答弁の方に喝采をしていたのである。焼け跡の国土に立ち尽している国民にとっては、吉田の平和主義が新鮮に思えたのである。吉田はそんな国民の感情を上手に利用した訳である。 現在の自民党と共産党の主張を比較すると、正反対のことに気がつく。当時、共産党は侵略戦争の放棄の条項でよいと主張し、衆議院で憲法採決には反対票を投じたのである。 共産党は、憲法反対派だったのです。正確に言うと、マッカーサー憲法反対派です。野坂共産党はソ連の強い指導下にあり、日本の東ドイツ化を目指し、マッカーサー占領軍を日本から追い出し、日本をソ連圏にいれようとしていたのです。ドイツの西半分は英米軍が占領し、西ドイツとなり、東半分はソ連が占領して東ドイツとなりましたが、日本も本土決戦が長引けば、北日本はソ連が占領し、野坂参三が大統領になって憲法を制定したことでしょう。 吉田茂首相が何故絶対平和主義者のような答弁をしたか、考えて見ます。彼は外務官僚で、英国大使等を歴任していましたが、自由主義者の英米協調派であり、東条英機首相に睨まれ、戦時中は干され、本土決戦となれば、憲兵から処刑処分を受けた筈でした。戦後アメリカの占領下が復活するのですが、府中刑務所から解放された共産党幹部は、アメリカ様様で解放軍アメリカ万歳と喜んだのですが、吉田首相は英米の帝国主義者の本質を体験していますから、戦後首相になっても、日本の国益をどうするか、を最大目標にしており、いかに英米を利用するか、特に米ソ対立の中で、アメリカをどう利用できるかを考えていたのです。吉田首相のような、侵略と圧制の帝国主義の時代を生きた外交官が、戦争放棄を本気で考えるはずがありません。 第一次大戦の後のベルサイユ条約の時に、ドイツは英米から軍備制限を受けましたが、これと同じことが憲法第9条におきたと考えたのです。国家の主権である国防権を取り上げられたのは敗戦国の悲哀であるが、代わりにアメリカが日本防衛義務を負担することになる。やれるのならばやってみよ。ソ連との対立の中でアメリカの負担は増す一方であるし、国防費を節約できる日本は経済再建が可能となる。マッカーサー占領軍司令官は戦争放棄と言ってきたが、この帝国主義の時代に奇麗事を言って通用するはずがない。しかし、ここは一番乗った振りをしてアメリカに国防費を押し付けるのが得策と判断したと思います。吉田首相にしてみれば、マッカーサーにような生粋の軍人なら本当は言うはずがないが、マッカーサーは勝利者ボケして、日本に対する報復主義の発想から、工業国から農業国に転落させてしまえ、軍備も廃棄させて二度と戦争をできないようにさせてしまえ、との考えであるから、やらせてみるか、日本の国益にもなるし、という発想で、侵略も自衛も戦争は何でも反対、軍備は放棄と言い出したのです。 野坂参三は帝国主義と国際共産主義の激動の世界を生き抜き、同志の命さえ売り渡してでも生き延びた男である。絶対的平和主義など馬鹿のような思想と軽蔑していたはずである。吉田も野坂も同じ世界の男であるが、第9条については、野坂は本気で質問し、吉田はかわしたのである。 マッカーサー占領軍司令官が愚かであった事はすぐにばれた。 米ソ対立が激化し、中華人民共和国が成立し、朝鮮戦争が目前となり、日本を反共防衛の最前線にしなければならなくなり、マッカーサー占領軍司令官は日本再軍備を吉田首相に要求するようになると、吉田は憲法第9条があるからと抵抗を始め、マッカーサー占領軍司令官は窮地に陥る。アメリカ本土では、マッカーサー占領軍司令官が憲法第9条を作るからいけないのだ、との批判が巻き起こり、困ったマッカーサー占領軍司令官は、第9条戦争の放棄はマッカーサーの発案ではなく、幣原喜重郎首相であると責任転嫁を図るのである。 結局、吉田首相はマッカーサー占領軍司令官から譲歩を引き出し、警察予備隊を少しずつ作り始めたのであるが、この間の経緯は吉田首相の勝ちと見られる。吉田首相の考えは、日本防衛はアメリカに丸抱えさせ、経済復興第一主義である。戦後成長の基盤つくりとして正しい戦略であった。 吉田首相始め以降の自民党・政府は、以後第9条解釈を改め、自衛権・自衛隊は認めることにしたのであり、護憲派が言う、政府自民党は憲法解釈を変遷させたとの主張は、この意味では正しい。 ( 芦田均は何故修正をいれたのか ) 野坂質問と吉田答弁が戦わされ、自衛権放棄の是非が審議されている真最中に憲法改正特別委員会では、芦田委員長が第9条A項の冒頭に「前項の目的を達するため」を挿入したいと提案をした。 この時、芦田は、修正の理由を深く説明せずに、ただ@項とA項とを繋げる用語としてふさわしいと説明しただけであった。芦田は、自衛権・自衛軍を認める趣旨で、挿入したいとは一言も言っていないのである。委員会は芦田修正提案に対して格別審議することなく、用語の問題として簡単に修正可決し、本会議でも格別の質問もなく、通過することとなる。 憲法公布後の昭和21年11月になって、芦田は「第9条でも再軍備は可能」との憲法解説書を明らかにしている。その後、朝鮮戦争の危険が現実化した昭和25年に芦田意見書を書き、「極東の情勢は重大な危機を包蔵している。わが国を狙う共産主義国の意図はもはや覆うべきもない。第三次世界大戦の起こる可能性はすこぶる強い。政府はすべからく国民に向かって日本が危ない瀬戸際に立つこと、日本人は自らの手で国を護る心構えを必要とすることを説き、政府自らその先頭に立って旗を振ることが急務である」と述べた。 芦田の説明によると、@項は侵略戦争を放棄したもので、自衛権まで放棄したものではなく、A項は侵略戦争の戦力を放棄したものであるが、明確にするために、「前項の目的を達するため」を挿入し、自衛力の放棄は意味していない、とのことである。 ならば、こんなに大事な修正理由ならば、何故当時の国会で言わなかったのか、が疑問となる。 それは多分に芦田の生き方にあると思われる。 芦田は、東大卒業後、20年間外交官を勤め、ロシア革命・ベルサイユ講和条約を見聞している。昭和7年政友会公認で京都から立候補して当選する。芦田は国際連盟からの脱退に反対して政府から目を付けられ、東条英機首相が政権を取ってから実施された昭和17年の翼賛選挙では、非推薦とされたが、当選している。 芦田は衆議院本会議で満州国問題で質問に立ち、「日本の外交政策が今尚軍部に引き摺られているという印象を諸外国に与えていることはわが国立憲政治の恥辱であります」と発言し、軍部右翼から目の敵とされ、テロの対象にもなりかかった男である。 翼賛選挙・・・東条軍部は政党を解散させて大政翼賛会を組織し、政府派の候補者には選挙資金を与え、反対派の候補者には警察が露骨な選挙干渉をした。 芦田は、戦前の東条軍部独裁政治と特高警察の時代に生抜いた民選・非翼賛の代議士であり、圧政下に生き延びる知恵を持っていた。芦田にしてみれば、東条英機首相と特高警察に代わって、マッカーサー占領軍司令官とアメリカ軍が来たと思ったのであろう。アメリカ軍を解放軍と信じて万歳をしたのは府中刑務所にいた共産党幹部であったが、芦田は決してそうは思ってはいなかった。ロシア革命・ベルサイユ講和条約を見た男である。ヒットラー、スターリンと同時代を生きた男である。平和を叫ぶ者の偽善を知り尽くしていたのである。 芦田は、野坂吉田論争を見て、資本主義と共産主義の決戦である第三次世界大戦の開戦を必至と考え、野坂の質問をスターリンの宣戦布告と読み、軍事費節約日本復興を第一義とする吉田を横目で眺め、絶対平和思想に酔う国民が吉田に喝采するのを止めもせず、黙って第9条に「前項の目的を達するため」と加入したのである。男は黙って仕事をしたのである。本当は、「最小限の自衛軍の保持を妨げない」と加入すれば、悪文でなくなるのであるが、当時絶対平和思想に酔う国民が多数であり、芦田は、絶対平和か否かの論争をすることは愚策と考え、マッカーサー占領軍包囲下の国会での憲法改正を早期に終えることを優先したのである。 以上のとおり、現第9条は、自衛権について「言及しない」という立法形式を取るものだから分かりにくくなっており、立法としては失敗作である。国会ではマッカーサー占領軍司令官の督促(早く作らんと極東委員会とか東京裁判がややこしくなる。天皇の運命に影響がある)に応じて、審議も法文練り上げもいい加減にして作ってしまった。なにしろ、国会の外では、占領軍が待機している。今日巣鴨プリズン送りにされるかも身の上は分からないのである。 近衛文麿元首相は、終戦後東久邇宮稔彦内閣の副総理格大臣であり、東久邇内閣総辞職後は内大臣御用掛となって、京都大学佐々木惣一教授を動員して、憲法改正作業を行い、保守的な改憲案を用意するのであるが、マッカーサー占領軍司令官から睨まれ、戦犯逮捕命令がおり、逮捕を潔しとせず、昭和21年12月16日服毒自殺を遂げている。当時の国会議員は、マッカーサー占領軍司令官に反対すれば、戦犯となる恐怖心に震えていたのである。昨日までは、特高、今日はマッカーサー占領軍司令官と変わったのである。 貴族院議員佐々木惣一教授は、貴族院の憲法改正審議で数少ない反対票を投じている。近衛文麿への鎮魂票であろうか。 (絶対非武装解釈論) 一方、現行第9条は、自衛戦争も自衛軍も否定していると主張する学説がある。現在の憲法学者のほぼ主流といってよい。この根拠としては、二項に「陸海軍その他の戦力は、保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあるを、有力視して、自衛戦争も自衛軍も否定した趣旨と理解する。 しかし、二項が「一項の目的を達するため」と限定目的挿入をしている以上、この解釈は文理解釈を超えている。実は、昭和20年代は、憲法学者の主流は、自衛戦争と自衛軍を放棄した趣旨ではない、としていたが、朝鮮戦争後から、社会党の日米安保条約反対運動の高まりの中で、自衛戦争も自衛軍も否定する解釈に変遷し始めたのである。昭和21年の国会憲法審議で、社会党議員が、第9条は自衛権も自衛戦争も否定した趣旨ではない、という前提で質問をしているのが、議事録に多く残されている。護憲派の解釈こそ変遷している。朝鮮戦争後の、日本列島非武装化(アメリカ軍撤退)の政治目的が、憲法解釈の変遷を意図した結果、解釈が変遷されたのである。 そもそも、一項の「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」 及び、 マッカーサー占領軍司令官提案の 「国民の一主権として戦争は之を放棄す。他の国民との紛争の手段としての武力の威嚇又は使用は永久に之を廃棄す」 は、昭和20年日本東京に突然登場した思想ではない。これらに言う、「国家主権の発動としての戦争」とは、国家が、政治の延長としての戦争を自由になしうる権能のことを言う。分かりにくいと思いますが、もともと、戦争には、善悪の評価がなかったのです。又、戦争をする権利とか、義務という観念もなかったのです。戦争とは、ただ単なる事実そのものだったのです。チンギスハンやナポレオンが戦争を起こすとき、これは国家の政治目的、即ち領土と他国の富の奪取の実現、はっきり言えば、強盗強姦殺人だったのです。勝てば、領土を拡張し、戦利品を国民に分配し、国民から賞賛を受ける。負ければ敗死する、それだけのことが、何千年も繰り返され、戦争に対して、いいとか悪いとか、違法とか合法とかの評価をするようになったのは、第一次大戦後のことです。 日清戦争では巨額の賠償金を獲得できたのに、日露戦争では、ロシアから南樺太を割譲させたが、賠償金は一円も取れなかった不満から明治38年日比谷公園焼き討ち事件に発展しました。日本国民は戦争がいいか悪いかの判断はせず、儲かったかどうかを判断していたのです。これが日中戦争での南京陥落提灯行列へと進みます。この間日本国民の戦争認識は何も変わっていないのです。第一次大戦後、世界は、戦争否定へと進んでいたにもかかわらずです。 第一次大戦は、兵器の改良が格段に進んで、未曾有の人的被害をもたらし、ヨーロッパ諸国民は、戦争自体を悪と評価し、回避する手段を真剣に検討を始めました。近世人道主義・博愛主義の影響があります。ナイチンゲールは1854年クリミヤ戦争で負傷兵救援活動を始めている。 1928年パリで不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約とも言う。フランス外相ブリアンとアメリカ国務長官ケロッグが呼びかけ人)が締結されました。ここには、国策の手段としての戦争の放棄が宣言され、日本を含む15国、1938年までには63国が調印している。 憲法第9条@の文面は、不戦条約の直訳引用に近く、不戦条約が国家の政策としての、すなわち侵略戦争を否定するが、自衛戦争は肯定していたことから、歴史比較憲法学によれば、憲法第9条@は、不戦条約を根拠法とし、自衛戦争を肯定したものと解釈できる。 以上のとおり、私は、憲法第9条の解釈として、自衛権と自衛軍を容認します。 (集団的自衛権) 政府は憲法解釈として自衛権と自衛隊を容認していますが、アメリカへの攻撃を日本への攻撃と見なして参戦することは禁止されているという憲法解釈を維持していますが、間違いと思います。日本が同盟を締結している国への攻撃を日本への攻撃=日本の自衛権侵害と同視することは憲法上もできます。そう解釈すれば集団的安全保障も実効性を保障でき、他国は攻撃を抑制されます。 憲法解釈から言えば、集団的安全保障を禁止した憲法条項はどこにもありません。ないから当然許されると解釈すべきです。この点について憲法は明文の規定を欠いていますから、改正の必要があります。憲法改正して、アメリカが攻撃されたとき、日本は国民投票により開戦の是非を決定すればよいのです。 (文民条項) 憲法第66条Aは「内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない」と規定されています。これはマッカーサー占領軍司令官の当初提案には、なかった条項です。第9条Aの「前項の目的を達するため」の芦田修正条項が入るころ、マッカーサー占領軍司令官の提案で挿入されたものです。 さて、第9条が自衛権と自衛軍を否定しているかどうかの論点について、この文民条項から、逆推定したらどうなりますか。 自衛権と自衛軍を否定する人は、文民とは、帝国陸海軍の軍人経験者を言うと解釈します。しかし、何十年以上と存続が予定される根本規範の憲法に、余命幾ばくの帝国軍人経験者のことをわざわざ規定するでしょうか。 文民とは、英語で言う、シビリアン、職業軍人の反対概念であり、アメリカ法のシビリアンコントロール即ち文民による職業軍人統制を意味します。政府は文民で構成され、国防省大臣も背広の文民であり、背広が軍服の職業軍人を統制することです。 戦前はシビリアンコントロールがなく、大日本帝国陸海軍大臣は、現役の軍人であり、戦前陸海軍は大臣を出さないと言い出して内閣を瓦解させ政変を引き起こしたことがありました。マッカーサー占領軍司令官は日本国憲法審議中にアメリカ法が言うシビリアンコントロールを採用させたのです。しからば、文民とは、新日本国国防軍の職業軍人ではない者と解釈されることとなります。要するに、第9条と第66条は、自衛軍の存在を予定しているのです。 更に、私の結論は、第9条は、「戦争を放棄する。以下余白」と規定しただけで、日本国民が300万人の犠牲を払って得た教訓を何一つ憲法に生かさなかったことを悔恨とします。よって、 @戦争の放棄 A国防軍の創設 の次に、日本国民300万人犠牲者の教訓を列記します。 「戦争放棄 以下余白」 現行第9条が意味することは、「戦争放棄 以下余白」です。証文の文末に、以下余白と書くことがあります。この意味は、これ以上書き加えることを許さない、ということです。 戦争放棄の文言も、侵略戦争も自衛戦争も放棄したのか否か、不明のままの文言にしておいて、以下余白なのです。以下余白、なのではなく、書かねばならぬ事柄が太平洋戦争時にあったではありませんか。太平洋戦争の教訓、反省は、「戦争放棄 以下余白」で良いのでしょうか。 金正日が日本を攻撃してきたとき、憲法を読んでも、戦争放棄としか書いてありません。国民が武器を持って反撃してもよいのかどうかさえ指針を与えていません。以下余白は国民に混乱を与えるでしょう。 私の憲法改正案の第9条は、K項まで続きます。もっと書いても良いと思います。日本国民犠牲者300万人の憲法請願はK項にとどまるはずはない。皆さんからの提案を待ちます。 衆知を憲法に集めて、義務教育で憲法を教育し、世界のどこでも、生きていく、無駄死にしないだけの知識を教育しなければならない。 BC、宣戦布告の国民投票 戦前明治憲法は、天皇が宣戦布告大権を有しており、議会になかった。議会の同意なくして、天皇は、宣戦布告することができた。 アメリカ憲法では、宣戦布告は連邦議会の権限である。真珠湾攻撃の直後、連邦議会は開会して対日宣戦布告を審議し、議員全員が意見を述べた。ただ一人女性議員が反対の意見を述べたが、一人以外の全員一致で宣戦布告は可決された。アメリカは対日戦争を民主主義的に決定したのである。だからこそ、太平洋戦争はアメリカにとって、国民戦争であり、強かったのである。 太平洋戦争時、大和魂の日本兵が突撃すれば、民主主義のアメリカ兵は逃げ出すと新聞で書かれていました。しかし、民主主義のアメリカ兵は強かったのです。真珠湾だまし討ちを怒り、アメリカは民主主義の総力をかけて対日復讐戦を決定したのです。真珠湾奇襲の後、僅か5月後ドーリットル爆撃隊は中部太平洋の空母から発進し、東京・名古屋・関西を爆撃して中国大陸国民党占領地まで飛んでいったのです。恐るべき大胆かつ危険な作戦をアメリカ兵がやってのけたのです。 開戦の手続き、日本ではどうするのか。内閣の決定だけでよいのか、国会の承認を必要とするのか、或いは国民投票とするのか。国策の最高決定事項であるが故に、民主主義の最高手続きを必要としたい 今憲法改正議論が進んでいるが、誰も宣戦布告の国民投票を論じない。内閣と国会の決議だけで、開戦を進めようとしている。天皇の宣戦布告と帝国議会の聖戦完遂決議で太平洋戦争は始まったが、特高の監視下にあった代議士は翼賛するしか生きる道がなかった。現在この過ちを繰り返さないためには、宣戦布告に国民投票を要件とすることである。 私は、宣戦布告が極めて重大なことであり、国民に多大の損失を強いることになるから、国民投票を必要とし、特に硬性決議である四分の三以上を必要としたい。 過半数、即ち、51%対49%で開戦しても、必敗となる。反対者の5%は実力反対派の確信犯となる。軍用列車に石を踏ませたり、インターネットで世界へ日本機の出撃を報道するであろう。戦争というものは、実力反対派を全員刑務所に収容しなければ戦えないのである。戦前軍部は国民総動員体制確立のためにどれほど準備したか、知ってますか。 76%対24%ならば、戦ってよいと思う。これより少なくては、勝利の自信がない。 このような硬性決議の国民投票を宣戦布告の要件にすることにより、政府による軽挙な開戦を防止することができるし、そもそも、国家の政治の最大事たる開戦に、国民の意思を直接反映しなくては、民主主義とは到底言えるはずもない。国民投票制の導入を提案する。 侵略が緊急に行われる場合もあり、内閣が宣戦布告すると同時に国民投票の公示をすることも考えた。国民投票で四分の三の賛成が得られなければ、内閣の総辞職を強いたい。 D戦時下にあっても、国民の人権は制限されない。特に、戦争の継続或いは停止についての言論は絶対に保障される。 どこの国でもそうだが、戦時下とか戒厳令下では、憲法人権規定が制限され、令状なしの逮捕とか、裁判の省略とかがなされる。戦前の日本でも戦時特例で人権制限がまかり通っていたが、これを否定すべきである。特に重要なのは言論の自由である。太平洋戦争中、和平論を唱えれば、特高に逮捕され治安維持法違反で刑務所送りになった。軍隊内で平和を唱えれば鉄拳制裁と重営倉入りは確実であった。 言論の自由は、第21条に規定してあるが、第9条でも更に、戦時における言論の自由として規定した。日中戦争から太平洋戦争まで、反戦の言論はおろか厭戦ムードの論調、批評、ため息、戦争指導者に対する批判まで一切禁止された。戦時にあっては、非常時であるので、言論の自由を制限する意見が出やすい。反戦を言えば、利敵行為の非国民と罵倒される。戦時の異常雰囲気の中で、反戦論から厭戦ため息まで、弾圧される。 しかし、開戦を、国民投票で決することとすると同じようにし続けなければならない。 太平洋戦争時には、戦闘で戦艦が何隻沈んだとか、勝てるだろうか、程度の話をしただけで、警察から呼び出されて、非国民と罵られ、留置場に叩き込まれ、反省しないとなると、特高の拷問、召集令状で南方送りで実質死刑にされたのである。 死ぬときでも、本音を語っては許されない、という世の中であった。 鹿児島知覧の特攻隊資料館へ行くと、特攻隊搭乗員の遺書が展示されているが、皆「先立つ不幸をお許しください。護国の鬼となって喜んで死にます。天皇陛下万歳」式が並んでいる。 一つ位、政府を批判する、或いは注文を付ける、明治憲法でも認められていた請願をする式の遺書がないかどうか、見てみたが、ないのである。 私ならば、死ぬ前に書きたい。 「東条英機総理の開戦の決定は誤りである」 「日露戦争では、開戦のとき、イギリスとアメリカに仲介を依頼しており、小村寿太郎はポーツマス講和会議を成立させた。太平洋戦争ではこの用意がしてあるのか」 「アメリカ兵を虐殺しているが、ハーグ陸戦規則に違反しているのではないか。兵学の講義で国際法の遵守を教えないのは何故か。日清日露の戦争では、東郷元帥以下国際法を厳守させたが、太平洋戦争では違うのは何故か」 との手紙がない。 「死ぬ前にどうしても知りたいから、言いたいから、内閣総理大臣に対し明治憲法に基き請願する」 との手紙もない。 全部、検閲で禁止されたのである。 上官から書き直しを命じられて、反抗すれば、鉄拳制裁、或いは翌日一番機で特攻出撃となる運命である。 遺書で本音を書くことさえ、禁じられたのである。 だからこそ、私は憲法改正でこの規定の新設を考えた。 人間死ぬ前こそ本音を書き残したいのである。東条英機の馬鹿野郎と遺書に書きたくても禁止された教訓を憲法改正に生かしたい。 要するに、戦争中は、何処でも、兵舎でも、戦場でも、言論の自由が認められ、故郷宛、或いは新聞社宛の手紙が検閲されることを禁止しなければならない。 E、核兵器、生物化学兵器、毒ガス兵器、対人地雷その他残虐なる兵器の廃止 アメリカマッカーサー占領軍司令官は、日本国憲法は戦争の放棄を規定させたが、これはマッカーサー占領軍司令官による太平洋戦争の報復としての武装禁止、軍国主義復活禁止命令である。豊臣秀吉が百姓が武装一揆をおこさないように刀狩をしたのに等しい。しかし、核兵器の禁止は命令しなかった。広島長崎の驚くべき悲惨さを目撃し、アメリカは原爆報道を一切禁止し、非人道的な原爆を隠蔽する処置に出たのであり、当然核兵器の禁止を日本国憲法に求めることもできなかった。 しかし、私は、この憲法改正にあたり、絶対に、核兵器の禁止を規定したい。 私の憲法改正前文では、究極の国際目標としての、兵器の廃絶を謳い、国際連合を強化して、核兵器の廃絶をはじめとして全ての兵器の廃絶を目的としている。 第9条では、自衛軍の創設を認めているが、核兵器、生物化学兵器、毒ガス兵器、その他残虐なる兵器の廃止を規定する。通常兵器のみを戦力とする。 兵器禁止の国際条約での歴史を見てみる。 引用、有斐閣現代国際法講義451ページ 1899年 毒ガス禁止 ダムダム弾(身体内で破裂する弾)禁止 1907年 ハーグ陸戦規則 不必要なる苦痛をあたうべき兵器の禁止 1925年 ガス禁止のジュネーブ議定書 1972年 細菌兵器禁止 1993年 化学兵器禁止 1997年 対人地雷兵器禁止 人道主義の観点からここまで進歩してきたが、未だ核兵器は国際条約で禁止となっていない。広島長崎の張本人アメリカが反対しているからである。 核兵器を保有している超大国が既得特権クラブを構成して新規開発国の登場を阻止している。これ以上核兵器保有国を増やさないというレベルに留まっており、核兵器自体を廃止することには至っていない。 毒ガスが禁止となっているのは、1899年に遡るが、毒ガスが禁止ならば、核兵器が禁止なのは、当然の解釈である。核兵器は、毒ガスよりも広範囲に放射能を拡散させ、戦闘員、非戦闘員の区別なく、原爆病で多数を致死させるからである。 日本国憲法は、核兵器の廃止を明記させ、これを国際社会へ広げていくことを、被爆国日本の国際方針とすべきである。アメリカが一番触れられたくない、核兵器の禁止を憲法に明記する意義は大きい。 日本が核兵器を廃止することは、当然として、全世界が核兵器を廃止するようにさせることを国是とする。勿論、現在核兵器保有国は増大する一方で、核バランス論が通用している。増加しても減ることがない。 朝鮮民主主義人民共和国の核保有とイスラムの核保有は最大の恐怖である。今のところ、アメリカなど先進国による核兵器不拡散方針に留まっているが、究極的には全世界での核兵器の廃止を世界的趨勢にしなければならなく、日本国憲法に明記することをもって、その先鞭とさせたい。 日本は、核兵器を、製造せず、持たず、持ち込ませずの三原則の他に、核兵器を廃止させる根本原則を全世界に向かって発信すべきである。広島・長崎の原爆体験を有する日本国民が世界憲法の先駆けとなるべきである。先進国憲法で核兵器廃止を明記する国は未だない。 この核兵器の廃止は、次に毒ガス、生物細菌兵器、対人地雷、ダムダム弾の廃止へと進み、究極的には全兵器の廃止へと発展させたいのである。 現行第9条では、戦力の放棄、と言いながら、核兵器については、一言の言及もない。マッカーサー占領軍司令官にとっては、広島・長崎の原爆はタブーであり、日本国憲法草案に書き込む訳にはいかなかった。しかし、原爆体験の日本国民としては、核兵器の放棄を書かずに、戦力の放棄を書くことには違和感がある。 憲法改正で、はっきりと核兵器の廃止を書き込み、アメリカの原爆投下に対して批判しておく必要がある。日本国民は決して広島・長崎原爆を許さない、と。 F戦時にあっても、人道主義及び国際法を遵守し、戦時捕虜及び難民を保護し、非戦闘員に対する攻撃は禁止する。 国際法の遵守、捕虜・非戦闘員の待遇を憲法に明記したい。 戦前の軍部は、下士官・兵士教育でハーグ陸戦規則・ジュネーブ条約を教えていなかった。捕虜・非戦闘員の待遇を間違えるから、戦犯裁判で処刑される軍人もいたが、教育しないほうが悪い。憲法に明記しておくべきである。 上官が、兵士に捕虜処刑を命令しても、日本国憲法で禁止されてますと兵士が答えられるようにすべきである。国際法は高等教育で教える科目であるが、憲法は義務教育で教える科目であるべきである。憲法を義務教育で学んでおれば、生死を間違えることのないようにしたい。太平洋戦争では、上官の命令のままに、捕虜や非戦闘員を虐待し、戦後戦犯に問われた兵士が多い。この反省を忘れないために、憲法に明記し、義務教育で教えるべきである。 「上官殿、ご命令ではありますが、憲法では、捕虜への虐殺は禁止されております」 と言えれる国民を育てることが、憲法教育の目的である。 第9条が、「戦争放棄 以下余白」では役に立たない。 捕虜・非戦闘員に関する国際法の進歩を見てみる。引用、有斐閣現代国際法講義455ページ 昔は、捕虜は復讐の対象ないしは奴隷であった。奴隷獲得が戦争の目的の場合も多かった。エジプト、アレキサンダー大王、ローマ、秦・漢・匈奴・モンゴルと、続いた。 近世では、スペインの中南米支配、アメリカのアフリカ奴隷貿易と、奴隷制は続いた。廃止されてまだ150年,しか経過していない。金正日の拉致は、語学教師獲得目的ということなら、労働力としての拉致であるから、奴隷といいうる。古来、東北アジアでは、奴隷拉致の歴史が長く濃いのである。金正日としては、当たり前の風俗ないしはビジネスとして何の後ろめたさも覚えていないかもしれない。 1907年 ハーグ陸戦規則では、 捕虜に対する報復は禁止され、暴行・脅迫・侮辱・公衆の好奇心から保護される。捕虜を抑留するときは、戦闘地域から離れたところにおき、良好な健康の維持に必要な食料・衣服等が供給されなければならない。抑留国は健康な捕虜を労働者として使用することができるが、その労働は過度であってはならず、抑留国の国民に認められる同種の労働時間を超えることはできない。敵対行為終了後は、捕虜は遅滞なく釈放送還されなければならない。 同、ハーグ陸戦規則では、 無差別攻撃が禁止された。防守都市と無防守都市の区別を設け、無防守都市に対しては、軍事目標に対する攻撃のみが認められる。 以上の国際法を知っていたら、日本兵は、戦犯に問われることも防止しえたし、シベリアへ抑留された日本兵は、ハーグ陸戦規則違反を理由に、国際赤十字に連絡を取りたい、とデモとストライキ作戦を行い、過酷な強制労働に対しては、八時間労働制と給料の支払いを求めて戦えたのであるが、理論武装がされていなかった。 捕虜虐待を理由に、戦後戦犯裁判が行われている。引用林博史岩波新書BC級戦犯裁判 東京裁判はA級裁判の被告人が28人で死刑が7人、BC級裁判は世界各地で被告人5700人、死刑は934人であった。 戦犯に対する裁判は、1907年ハーグ陸戦規則、1929年ジュネーブ条約により認められている。 日本人死刑934人の中では、捕虜への虐待、非戦闘員への虐待が一番多い。連合国軍兵士は35 万人捕虜になっており、東南アジアで強制労働させられた。 アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア・ニュージーランド・カナダの6ヶ国の15万人の捕虜の内、42467人が死亡している。死亡率28,5%である。ナチスドイツの捕虜になった英米捕虜の死亡率7%、 シベリア日本抑留兵死亡率10%と比較しても、高い。英米が戦後捕虜虐待を理由に戦犯裁判をする理由も分かる。爆撃機搭乗員を即時処刑したり、九州大学病院での人体実験解剖など、日本人が人道主義を忘れたのではないかという驚愕の事件もあった。 ドーリットル爆撃隊は、日本列島爆撃後、中国大陸まで飛んだが、燃料が不足し、日本軍支配地区に降下したB25の搭乗員8人は、上海の日本軍の軍律法廷で、無差別爆撃の戦争犯罪人として起訴され、三人が死刑、五人が終身刑になっている。 昭和20年5月名古屋市を爆撃したB29の搭乗員11人は、軍律法廷で起訴され、全員死刑となっている。 日本の軍律法廷は、B29の都市部無差別爆撃は非戦闘員に対する組織的虐殺であり、国際法に違反する戦闘行為と認定したのである。 戦後アメリカは軍律法廷の裁判官と検察官を戦犯として起訴したが、判決はいずれも死刑は回避の重労働で済んでいる。何故アメリカは死刑を回避したのか、アメリカも無差別爆撃について内心忸怩たるところがあったのである。 憲法改正され、私が兵士として戦地におり、上官から捕虜処刑を命令されても、私は、 「上官のご命令でありますが、憲法に違反しますのでお断りします」と返答できるし、もしも上官が、命令違反で処罰するとこだわれば、私は 「東京地方裁判所に捕虜処刑命令取消請求行政訴訟を提訴します・判決が出るまで処刑はできません」と言う。 上官が怒って鉄拳制裁すれば、私は 「私的制裁は違法です。私は上官の居住地である長野地方裁判所に上官を被告として慰謝料の損害賠償請求訴訟を提訴する。法廷でお会いしましょう」と言う。 上官が「どうやって訴状を出すのだ。握り潰してやる」といえば、私は 「郵便で出すのが、当たり前でしょう。握り潰したら、郵便法違反でも刑事告訴する」と言う。 更に上官と取っ組み合いになれば、私は 「馬鹿な上官の下では無駄死にだ。軍隊辞めます。徴兵制は憲法で禁止ですから兵士はいつでも辞めれるのです」と言う。 何を寝言のようなことを書いているのだ。軍隊とは上官の命令は天皇陛下の命令、兵士は服従するだけだ、と言う人は、戦前の体験者です。 私は、この体験を反省し、このように言える兵士、民主主義の主権者たる兵士を憲法で育成したいのです。 ( 余談 ) ドーリットル爆撃隊とかB29搭乗員に対する軍律裁判というのは、良いアイディアだったと思います。アメリカ搭乗員は、軍事目標だけではなく、市街密集地を無差別に爆撃し、学校も病院も爆撃し、校庭を走る子供にも射撃したのです。ですから、パラシュートで脱出したアメリカ兵を取り囲み、憤激した住民が竹やりで始末してしまったことも当然の成り行きでした。 アメリカはドーリットル爆撃隊の昭和17年4月の段階から無差別爆撃の方針を採っていました。真珠湾の騙し討ちの報復としてしたのではなく、既にヨーロッパ戦線でナチスドイツがロンドン無差別爆撃をしており、英米軍も対抗してドイツ諸都市に無差別爆撃を敢行していました。昭和14年から、ドイツも英米も狂乱して見境がなかったのです。非戦闘員を保護し、捕虜を労わり、かつ勇敢に戦うという美談の英雄話はどこにもなかったのです。 戦闘機の一騎打ちの空中戦で、負けた方はパラシュートで脱出しますが、勝った方は狙撃せずに敬礼で見送る、海上か、地上に落ちるか、落ちた先はあんたのグット・ラック、と言う訳です。第一次大戦に真紅の三葉機に乗ったレッドバロン、赤い男爵と呼ばれたドイツのリヒトホーヘェンと言うパイロットがいた時代の話です。この男は敵機80機落として26歳で戦死した。しかし第二次大戦になると、パラシュート脱出操縦士に対しても狙撃する風潮になります。二度と戦闘機に乗れなくしてやる、ということです。戦争が現在戦闘力の駒潰しではなく、総力戦の潜在的戦闘力も含めた駒潰しに変わった為です。女子供も潜在的・将来的戦闘力という認識になるから、殺してしまえ、との理屈が横行し、人道主義が見捨てられるのです。 日本軍は日中戦争で南京無差別爆撃したことは事実でしたが、日本軍はケチと言うか、物資がないと言うか、南京に落とした爆弾はアメリカのB29の百万分の一でした。太平洋戦争では、日本軍は英米の非戦闘員に対して組織的虐殺をしたことは絶無です。 アメリカの非戦闘員で死亡したのは、風船爆弾で被災した6人のアメリカ人親子だけです。昭和19年末日本軍は風船爆弾を製造して偏西風に乗せてアメリカ本土へ送りました。殆ど太平洋に沈みましたが、一部がアメリカ本土に到着し、積載していた焼夷弾が発火して山火事を発生させた程度の戦果であった。昭和20年5月5日アメリカオレゴン州ブティレークビューで立ち木に引っかかった風船爆弾を引き下ろそうとした5人の子供と主婦の6人が爆死している。これが太平洋戦争で記録されたアメリカ非戦闘員の唯一の死亡である。 中国やマレー・シンガポールは別として、日本軍は対英米については、戦時国際法を遵守して、非戦闘員に対する組織的虐殺は控えていたのです。この点の有利さを生かして、日本は、B29搭乗員に対する国際法違反を問う裁判を上手に組織化すれば良かったのです。 私なら、ドーリットル爆撃隊とかB29搭乗員を東京地方裁判所に殺人罪で起訴します。軍律裁判にはしません。その上で、アメリカに通告し、アメリカ人弁護士の法廷立会いを許可し、小笠原諸島の父島を無害交通地域に指定し、アメリカ人弁護士・通訳・報道陣・家族の降下を許可します。これらを東京地方裁判所の法廷に立ち合わせ、よって裁判の公開性と公正を保障します。 スイス・スエーデン・スペイン・ポルトガルは中立国であり、何人かは日本に滞在していましたから、これらの裁判には、陪審員として立ち会わせます。 そして、公開の法廷で、校庭で狙撃された生徒達に証言させる。アメリカ報道陣にカメラを回させるのです。 この裁判で、アメリカが無差別爆撃で非戦闘員に対する組織的大量殺戮をしていることを全世界に発信します。判決は勿論死刑ですが、天皇は、内々で死刑執行延期の恩赦を与えます。 こうすれば、アメリカは無差別爆撃を手控えるようになり、広島長崎の市街地への原爆投下についても躊躇することとなったでしょう。 アメリカはそんな善人ではない、と言われる人もいるでしょうが、アメリカの弁護士と報道陣を呼んでの世論工作はアメリカ世論に大きな影響を与えたでしょう。インデアンに対しても、黒人奴隷に対してでもそうでしたが、アメリカ人は、むき出しの野性ですが、批判されると反省する良い一面を持っているのです。なによりもアメリカには民主主義と言論の自由があります。 ついでにドーリットル爆撃隊とかB29搭乗員の中で、軍事施設だけを爆撃して捕虜になったアメリカ兵士については、帝国ホテルに住まわせて、敵ながら天晴れの武人であると厚遇すれば良かったのです。オーストラリアだって、シドニー軍港へ潜航して戦死した特殊潜航艇の日本軍人に丁重な葬式をしてくれたのです。 アメリカ搭乗員は、無差別爆撃命令に対して議論を始めますし、世論と議会は必ず動きます。 日露戦争のときは、日本には、アメリカとイギリスという仲介者を用意してから戦争を始めました。太平洋戦争のときはまったくなしです。これが悪い策なのです。 太平洋戦争開戦後、日本はアメリカとの一切交渉の窓口さえなくしてしまいました。チャンネルをいくつも用意しておきことが大事です。東京にアメリカ弁護士と報道陣を呼ぶこと、裁判に中立国民を介在させること、太平洋戦争は国際紛争です。国際的に解決する方策を考えもしなかった東条政府の無策振りには、あきれ返ります。 もともとは、無策は近衛文麿です。南京陥落後、国民政府を相手としない、と宣言してしまったのです。戦争の相手と交渉しない、ということは、和平の話し相手がいないということです。戦争とは相手を否定することではなく、当事者として認めることです。これが分かっていないと、解決の手段を失う。 捕虜は保護しなければならず、戦闘に利用してはいけないと、ハーグ陸戦規則で規定されていますか、実際には、戦地の最前線で白旗を掲げた将官が進み出て、捕虜の待遇とか送還とか医療などについて交渉がなされ、それが契機となり、停戦とか和平交渉に結びつく例は多かったのです。朝鮮戦争では何度も前線での交渉をして、現在の休戦協定に至っています。 硫黄島の栗林忠道中将率いる守備隊は、23000人、捕虜生き残りは210人、アメリカ軍損失は26000人死傷であった。アメリカ軍損失の方が多く、日本軍敢闘の戦場と誉める人がいるが、愛馬行進曲の作詞家として知られる栗林中将であったが、最後の決別の電報で「散るぞ悲しき」と辞世の歌を詠んだ。栗林中将の心境は、誉められてうれしい、ということではない。 死傷者の数では、アメリカ軍が多いが、戦死者の数では圧倒的に日本軍が多い。開戦当初日本軍は有利に展開しアメリカ軍に多大の損失を強いていたが、補給がなく、勢力ジリ貧となり、途中からは、地下壕に立て籠もるだけで積極的作戦は展開できず、アメリカ軍の兎狩、この島では、火炎放射器による洞窟攻めで全滅に至ったのである。最初は、1対1の損耗比、最後は1対100の損耗比になっていたであろう。 2月19日上陸開戦から3月17日の万歳突撃まで、一月余り日本軍はよく戦ったと思う。しかし作戦がなかった。兵士に自分の塹壕を死守せよと命令するだけであり、勝利への展望を示す作戦は遂に命令されることはなかった。最後の万歳突撃は、自殺強制命令に等しい。死守作戦がアメリカの占領を遅延させる時間稼ぎが目的であるのならば、効果なしである。最後の万歳突撃をせずに戦力を温存させておれば、一週間は敗北を遅延させたであろう。しかし、3月17日の全滅が24日になるだけのことですか。 とにかく、栗林中将に作戦らしい作戦はなかったというしかないが、そう言うのも現場の力関係から言うと酷に失する、栗林中将は、一月間アメリカ軍を硫黄島に引き付け、本土攻撃を一月間遅延せしめた軍功があると言う人がいる。そうだとしても、7月15日を8月15日にしただけのことである。23000人の末期の一月間に思いし、黙祷すれば、そんな軍功など、散るぞ悲しき 私が栗林中将ならば、一策があった。 部隊は満州にいた最新鋭であり、硫黄島までの海路が奇跡的に無事であり、戦車隊と重砲隊がいた。重装備の丸々の一個師団である。塹壕を掘り廻らし、全軍を地下に隠すことは栗林中将と同じ作戦である。 私は、 勝利を目的としない作戦はない 目的の範囲内で作戦を立案する 終わりを予定しない作戦はない 死を目的とした作戦は即負けである 兵士は勝利のみに奮起し、死に絶望する と考える。 硫黄島は、南の擂鉢山と中央の平地、北半分の山地に分かれる。アメリカ軍の上陸適地は中央の平地の東西海岸しかない。必ずここから上陸する。 日本軍は、擂鉢山と北山地の塹壕に立て篭もり、砲兵隊はアメリカ軍上陸予定地に対する定点射撃訓練を徹底的に行う。戦車隊と支援の歩兵隊は格納してある塹壕からアメリカ軍上陸予定地まで目をつむっていても突撃できる訓練をしておく。 上陸前日の艦砲射撃に対して一発の反撃砲弾も撃たずに耐え忍ぶ。 上陸初日、アメリカ軍は中央平地の東西海岸に上陸し、中央平地を占領し、野営するだろう。前線には鉄条網と地雷を並べて日本軍夜襲を阻止しようとするだろう。 深夜12時、日本軍砲兵隊は突如発砲を開始する。アメリカ軍の鉄条網、地雷を破壊した上、アメリカ軍の野営陣地に集中的に砲撃する。その後、戦車隊と支援する歩兵隊が一挙に塹壕から出て突撃する。朝日が昇るまで戦場で肉弾戦が繰り広げられるが、日本兵はアメリカ兵を何人殺害するか、ということではなく、何人捕虜に取るか、に努める。 朝日が昇り、アメリカ軍増援隊が海岸に到着したとき、中央平地のど真ん中に、日章旗と赤十字旗が翻り、捕虜収容所の大看板とテントが並ぶのを見る。海岸には日本軍将校が白旗を掲げ、負傷兵の治療と戦死者の収容の為に24時間の休戦を申し込むと提案する。 アメリカ将校が、テント内を視察すると、負傷したアメリカ兵が収容され、日本軍医と衛生兵が治療している。軍医から、アメリカ兵が英語で苦痛を訴えるが、英語方言が判りにくいから困る、通訳を派遣してもらいたいといわれる。アメリカ将校が、収容しているアメリカ兵の名簿を得たいと言えば、休戦時間の延長がなされれば可能であると、回答を受ける。 日本とアメリカとが、降伏の儀式以外に戦場で白旗を掲げて交渉したことはなかった。フィリピンではアメリカ軍の降伏は何回もあった。 アメリカ軍は当惑するであろう。人間始めての体験のときは、判断が遅延しがちなのである。日本軍が、戦死者と重傷兵を無条件でアメリカ軍に引き渡すとの提案をしてきたとき、アメリカ軍は判断に迷い、ワシントンに訓令を仰ぐ。 アメリカ軍は、戦場のど真ん中に捕虜収容所を建設することは、ハーグ陸戦規則違反であると主張するが、ならばどこに建設すればよいのか教えてくれ、と回答する日本軍に戸惑ってしまう。狭い硫黄島、どこにもそんな適地はないのである。 何日間もかかって戦死者と重傷兵の送還をしているころ、昭和7年のサンフランシスコオリンピック大会馬術で金メダル優勝の西竹一男爵中尉が登場し、思い出話を披露するうちに、戦場に奇妙な平和が支配するようになる。一旦死を免れた兵士は生に執着するようになる。 中央平地の海岸には、アメリカ軍上陸部隊、擂鉢山と北部山地には日本軍、そのど真ん中に捕虜収容所、という位置関係で睨み合いが続き、何度かアメリカ軍は意を決して突撃を行うが、捕虜収容所周りに堀り廻らされた塹壕陣地に立てこもる日本兵の抵抗を突破できず、こう着状態に陥る。艦砲射撃と空爆は捕虜収容所への誤爆を来たす。交戦しばらくすると、白旗の日本軍将校が、戦死者と重傷兵の引取りを議題にして交渉にやってきて、又休戦交渉となる。 守る日本軍も、攻めるアメリカ軍も二万人おり、一個師団の四つ相撲である。塹壕戦となれば、第一次大戦の西部戦線と同じく持久戦になる。次第に捕虜の生命が持たなくなっていくのである。休戦交渉では、捕虜の待遇、捕虜への医薬品と食料の提供が議題となる。栗林中将は、国際赤十字委員会の開催を提案する。勿論、当時ヨーロッパ以外で国際赤十字委員会が機能することはありえなかったが、議題は世界的に発展させるべきであり、硫黄島から日米講和の交渉開始とすればよかったのである。戦場の軍人にその資格があるかどうかであるが、栗林は中将、ゼネラル、将官である。停戦交渉をうまく立ち回れば、負けはなくすることにできた。 アメリカの硫黄島占領の軍事目的は、サイパン島占領後B29の日本攻撃基地を得たが、護衛戦闘機の航続距離には満たないので、中間点にある硫黄島の占領を図ったのである。栗林中将の軍事目的は、当然アメリカ軍のこの目的を阻止することにある。しからば、アメリカ軍が硫黄島の中央平地の飛行場を占領しても構わない。北部山地から重砲で飛行場を砲撃できればよいのである。北部山地の麓に捕虜収容所を建設し、砲兵隊の盾にしても構わない、アメリカ軍に硫黄島飛行場占領の実を与えても、実際砲撃によりアメリカ戦闘機の発着を阻止しえれば、軍事的に成功といえる。この均衡関係のまま、来るべき終戦の日まで日本軍を組織的に維持できれば、栗林中将は負けなかった、否、軍事目的遂行上、勝利したと言えるのである。 栗林中将の獲得したアメリカ兵の捕虜の数で、アメリカ軍の作戦が決定される。少数ならば、アメリカ軍は捕虜の生命を無視して突撃するが、多数ならば躊躇する。捕虜収容所があるから、一律に爆撃を控えた、という話は聞いたことはない。広島に原爆が投下され、アメリカ捕虜も被爆している。 躊躇の均衡関係が、20年2月から8月15日まで継続できれば、栗林中将の勝利なのである。日本海軍は、真珠湾、珊瑚海海戦、第一次ソロモン海戦では勝利した経験を持っている。日本陸軍は対米戦ではヒィリピン占領戦以外一度も勝利したことはない。栗林中将は、価値ある勝利を記念しえたのである。しかし、彼はそうしなかった。塹壕に立て籠もって、ただアメリカ軍の占領を遅延させること、要するに一月間遅延させることのみにこだわった。そのため、23000人を失った。ひとつの中都市の人口を失ったのである。一家の主を23000人失い、家族含めて10万人が悲嘆に暮れたのである。 彼は、散るぞ悲しき、と辞世の歌を残し、私は涙を流して彼に敬礼をするが、死ぬ作戦ではなく、生きる作戦を展開できなかったか、戦時国際法を駆使して、捕虜を盾に取るという変則技にて恥ずかしながらも、天皇陛下から預かった赤子23000人を祖国の家庭に戻すために知恵を尽くしたか、彼には、そもそも太平洋戦争終戦の日という概念があったかどうか、私には意見がある。 日露戦争のとき、大山元帥も東郷元帥も政府首脳も、日露戦争終戦の日という目標があったと思う。太平洋戦争では、指導者は誰もそれを考えずに、日々の戦闘を行い、日が暮れたのである。 終わりの予定のない作戦は、ない。 私は、弁護士としてこの30年勝ち負けに明け暮れてきましたが、勝ちは心地よく、負けは悲惨最たるもの、開戦のときに終戦の落ち着き様と期日を占い、祈るのです。勝ち負けは生き物、予想に反して不利に展開すれば、転進退却も恥とせず、損失の発生を抑え、得た勝利さえ見切ることがある。勝ちは平和である。負けは地獄、後がない。負けは何度しても勝ちに転ずるまでやめなければ良い。ただし、生きてる限りの人生で終わりがある。終わりを計ることが肝心である。 太平洋戦争の将は、自ら作戦を考えただけでも、幸である。兵士はそれさえできず、戦場の牛馬の如しであった。自分の人生の最後を自己決定できないことは、人間にとって、自由を得ない、ということである。 沖縄戦を語る。 昭和20年4月1日アメリカ軍は18万人の兵力で沖縄に上陸し、神風特攻隊の特攻が開始となる。4月7日戦艦大和が沖縄特攻し、沈没する。 日本軍は8万人の守備隊で戦うが、5月31日那覇が占領され、6月23日牛島満中将が自決し、日本軍民の死者は15万人、アメリカ軍の死傷者は65000人であった。牛島中将の最後の電文は、沖縄県民ヨクタタカヘリ 将来格別ノゴ配慮タマワランコトヲ 沖縄戦の最大特徴は、非戦闘員を巻き込んだ最初の本格的戦争である。その前にはサイパンであった。 牛島中将の作戦では非戦闘員をどう処置するか、観点がなかった。全くなかった。アメリカ軍と日本軍の戦闘と移動の狭間で非戦闘員は右往左往し、砲弾の餌食となったのである。 そもそも、日本軍は、日清日露戦争を通じても、日中戦争を通じても、自国非戦闘員国民を戦場に巻き込んだ前例がなく、経験がなかった。その為、対策を講じることができなかったと弁護する向きもある。 しかし、日中戦争で中国国民政府軍が非戦闘員の住民を巻き込んで日中戦争を行い、日本軍は目の前で軍民混然一体化した戦争を目撃体験している。私は、体験がないという弁護論を許さない。 私ならば、那覇市に無防守都市宣言をする。 1943年7月25日イタリアのムッソリーニが国王から首相を罷免、逮捕され、バドリオ政権が発足する。8月13日ローマが無防守都市宣言をし、戦禍を免れている。9月3日にはバドリオ政権は連合国と降伏調印をして、イタリアに平和が到来する。 無防守都市宣言とは、ハーグ陸戦規則1907年に規定されている。 防守都市には、無差別攻撃が許されるが、無防守都市には、軍事目標のみの攻撃が許される。 無防守都市宣言をすれば、その都市内に軍隊を駐留させることはできず、都市内には非戦闘員の民間人と赤十字機関と非軍事機関しか存在が許されない。その代わり、攻撃が回避されることになる。 那覇市を無防守都市宣言すれば、日本軍は那覇市内から脱出し、非戦闘員の民間人、赤十字機関、那覇市役所の民生機関・警察機関が残留することとなるが、戦争への協力行為は禁止される。那覇市に突入したアメリカ軍は那覇市を軍事的に利用することは禁止され、那覇市内に日本軍が残留していないか、調査することはできるが、軍事的に占領して、那覇市内に重砲陣地を置いて無防守都市区域外の日本軍に射撃することも禁止される。 非戦闘員の住民は那覇市に流入すれば、戦争の惨禍にあうことはなくなる。 牛島中将が、無防守都市宣言を知らなかったことはありえない。ハーグ陸戦規則は陸軍大学の必須科目であり、ローマの無防守都市宣言は報道で知っていたはずである。 牛島中将が無防守都市宣言をしなかった理由は、県都那覇市を放棄することの大義名分論にこだわったからであろう。城を落とすことが戦勝という古い軍事学に引きずられたのである。城を落とされても、旗を奪われても、最後に勝てばよい、劉邦は項羽に百敗して最後に一勝したのであると、私は思う。 昭和の日本軍は全く戦時国際法を活用することはなかった。日清戦争の時の東郷平八郎元帥は、清国陸兵を満載したイギリス商船に対して停止命令を出すが、停戦しないので、撃沈したことがあった。商船を沈没されたイギリス世論は激昂したが、イギリス法律家が東郷艦長の処置に国際法違反はないとの見解により、沈静化したことがあった。日清・日露戦争の頃は、国際法の遵守が常識とされたが、日中、太平洋戦争となると、全く無視するようになる。それが悔恨事の原因となる。 私の作戦はこうする。 那覇市からは全軍を撤退させ、沖縄全県から非戦闘員の住民を那覇市に集結させ、民生用食料備品を備蓄させる。日本軍は、沖縄南部と北部の山地に塹壕戦を敷く。那覇市には市役所民生部門、赤十字機関、警察機関を設置し、アメリカ軍と交渉させる。那覇市長が治安の責任者となり、アメリカ軍が那覇市に進駐することがあっても、軍事的利用はさせず、治安維持に協力させる。食料医薬品の補給に協力させる。那覇市内の病院には日米の戦傷者を収容する。 沖縄南部と北部に塹壕を掘って展開する日本軍は次第に追い詰められていくであろうが、本来4月1日から6月23日までしか持たなかった沖縄防衛が、那覇市無防守都市宣言によって、短縮されるとも思われない。アメリカ軍の沖縄攻撃の目的は、沖縄全土を占領することではなく、本土上陸の前哨基地、特に飛行場の確保である。那覇市長とアメリカ軍が交渉する中で、部分的停戦ではなく、一定の停戦交渉がまとまることもありうる。那覇市長が日米軍の中間に立って、チンタラ交渉を重ねる振りをしながら時間を稼ぎ、日本軍に対する攻撃を遅延させることである。那覇市長と牛島中将の連携プレイができるかどうかである。 要するに、沖縄南部か北部のある地域を日本軍支配とし、暫定的停戦協定をし、延長を重ねることにより、牛島中将は将旗を降ろさずに済む、つまり、負けない、自決しない、一応戦闘中、の状態とする。昭和20年の7月になっても8月になっても、牛島中将は沖縄のどこかで将旗を掲げて戦っておればよいのである。食料が足らなくなったら、那覇市長がアメリカ軍を誤魔化して搬送すればよいのである。 那覇市長は、無防守都市の市長として、非軍事に徹し、日本軍への加担も禁止され、違反すれば、アメリカ軍からスパイ罪で処刑される運命にある。一方、日本軍憲兵隊から見れば、売国奴であり、即決死刑に値する。この大役を務め上げられる人物はいたであろうか。 おれば、牛島中将は、負けずに8月15日を迎えることができたことになる。 ここで、戦時国際法が規定する、非戦闘員と戦闘員の区別、日中戦争で中国軍がおこなった戦闘方法について述べたい。 ハーグ陸戦規則によると、戦闘員の定義は、指揮官がおり、公然と武装し、軍服軍章を着用していることである。この資格を具備するもののみが捕虜の待遇を得られる。 平服を着用して、戦場の偵察をしている者は、たとえ軍人であっても、捕虜の資格を得ない。スパイとして即決処刑が可能である。スパイはその場で死刑ということを聞いたことがあるでしょう。ハーグ陸戦規則から言われることなのです。 ハーグ陸戦規則では、降伏旗を掲げて交渉を装うこと、傷病による行動不能を装うこと、文民・非戦闘員の地位を装うこと、などの背信行為が禁止されている。 日中戦争では、中国国民政府軍及び共産軍は、人民戦争と称して、ハーグ陸戦規則違反を戦術としておこなった。軍服を脱いだ兵士が民間人を装い、日本軍支配の町に侵入し、一斉に蜂起して日本軍を攻撃するのである。平服の女性が勇敢にも手榴弾を隠し持って攻撃することもあった。日本軍国主義に対する中国人民の全面的反撃として、英雄行為として賞賛された。 しかし、不意の攻撃を受けた日本軍としては、ハーグ陸戦規則で禁止された背信戦闘行為として報復に出るのである。中国軍の発信基地と思われる村落を襲撃し、成年男子を引きずり出し、捕虜の待遇を与えずにその場で銃殺した。ルールのない戦争はとめどもない。これの繰り返しで泥沼に陥っていくのである。 人民戦争方式を取るということは、ハーグ陸戦規則を放棄し、捕虜と非戦闘員の保護の廃絶を意味していた。中国軍の取った人民戦争方式への対抗から、日本軍が平服の非戦闘員を処刑したことには、このような理由があった。 このような人民戦争の方式は、現在のテロリストの戦術と一致することに気が付くべきである。国際法の戦争は、宣戦布告を明示し、軍服軍章を着用し、軍旗を掲げ、名乗り上げすることである。テロリストの戦術は、平服を着て敵味方の非戦闘員の群れの中に隠れ、宣戦布告もせず、軍事非軍事を問わない目標に対して攻撃を仕掛けるのである。テロリストを国際法から排除することが一番必要になっている。このテロリストとして、イスラム原理主義者と、金日成主義者がいる。 南京陥落時の虐殺はすこし違う。確かに南京陥落時に、敗走して民衆の群れの中に紛れ込んだ敗残兵が軍服を脱いで隠れたこともあったと思う。 しかし、その前に、日本が中華民国に対して宣戦布告をしていない、戦争状態になかったことが原因である。日本が中華民国に宣戦布告しておれば、第三国となる英米は、中立国となり、中立宣言をするか否か、決断を迫られる。中立宣言をすれば、戦争の一方当事者である日本に対する軍需物資の禁輸を発動せざるをえなくなる。鉄と石油の禁輸が始まれば、日本は困り果てる。英米は日本の中国侵略に批判的であり、禁輸は確実の見通しであった。従って、日本は、中国に対して宣戦布告をすることができず、日中戦争と呼ぶことができず、支那事変と呼んだのである。 戦争ではないから、捕虜はいないはずであり、捕虜収容所も存在しないはずとなる。 司令部は前線部隊に捕虜の現地処分を命令し、川岸に捕虜を並べて機関銃で射殺するという蛮行をしたのである。 日露戦争ではロシア人捕虜を、第一次大戦ではドイツ人捕虜を、厚遇し、ドイツ人捕虜は四国松山収容所で本邦初演の第九交響曲を演奏している。捕虜厚遇は日本国民の共通体験であった。しかし、捕虜を敬礼して祖国へ送還した体験を有する日本軍が南京虐殺から狂ってしまい、軍紀が乱れ、捕虜虐殺の次は、強盗強姦へと発展してしまったのである。生死紙一重の極限状態にある兵士に軍紀を守らせることは容易ではない。そばにいた戦友が血を吹いて死んでいるのである。捕虜を見れば敵討ちしたい気になるのは当たり前である。それを押しとどめて、捕虜を保護させるには、強烈な軍紀が必要となる。上官が、昨日の敵は今日の友、乃木将軍とステッセル将軍の昔話を引用して兵士に説教しなければならないのである。しかるに、捕虜を並べて公然と射殺を始めれば、もう軍紀崩壊は止まらない。強盗強姦やりたい放題となる。 しかし、南京虐殺が何十万人という話には、賛成しない。南京陥落後の戦場の混乱は短期間であり、何千人ならば理解できる。とにかく、ソ連兵の満州での強盗強姦に及ぶはずがない。 那覇市が無防守都市宣言をして、那覇市長が住民を那覇市に入れたとき、様々な難問が那覇市長を襲うことになる。 アメリカ軍との交渉 日本兵が残留していないか、家捜しをはじめるから混乱が発生する。強盗強姦事件も発生する。那覇市長は警察権を行使して、どこまでアメリカ軍と交渉しえるかが問題となる。 住民保護 、食料・医薬品はすぐ底を尽くであろう。アメリカ軍に提供させることが重要な交渉事になる。 日本軍との交渉 南部と北部の塹壕に立てこもる日本軍から食料・医薬品の調達要請が来る。協力すれば、アメリカ軍が市長の逮捕射殺に来る。さりとて、無視できない。 日米停戦交渉の仲介 那覇市長は、日米両軍の様々な仲介をすることにより、停戦交渉の仲介人の役割を果たすようになる。日本軍強硬派から見れば、裏切り者、アメリカ軍から見ればスパイ、この中で双方の信頼を獲得して停戦交渉を纏め上げられる人物はそうはいない。こんな人間が那覇にいただろうか。 将来、東アジア戦争が勃発して、沖縄が戦場になったとき、沖縄には立ち回れる人物がいるであろうか。 本土決戦となり、東京がアメリカ軍により陥落したとき、誰かが東京市長にならなければならない。吉田茂とか芦田均が憲兵隊に処刑されずに東京に残っていたら、彼は引き受けたと思うが、どうであろうか。現在のバクダット市長のような立場である。 本土決戦となったら、どうなったか、予想したことがありますか。 日本軍がアメリカ軍に押されて段々と山の中へ撤退していくだけのことではない。東京都が陥落するとき、憲兵隊はアメリカ協力者になりそうな者を次々と処刑していくでしょう。 関東大震災のときの、無政府主義者、朝鮮人虐殺のレベルどころではない、吉田茂のような海外知識人、ハイカラインテリ、戦争への非協力者、等で十万人単位、全国で百万人の処刑が実行されたと思います。連行中国人・朝鮮人は全部処刑です。 この憲兵隊の処刑から免れた者のなかから、アメリカ軍政下の市長が生まれていきます。かれらが新日本の新政府の建設者になる訳です。 日本政府に賢い人がおれば、二重権力制を意図するでしょう。簡単に言えば、偽装降伏政府です。 太平洋戦争中のフィリピン政府がそうです。日本軍に協力する振りをしていただけです。 東京に偽装降伏政府を作って、天皇は、長野県松代へ退去しますが、その後何年本土決戦ができたかは、東京偽装降伏政府の首相の腕前次第でしょう。うまくいって、昭和25年まで本土決戦が続いておれば、もう日本降伏は回避できます。朝鮮戦争が勃発しますから、アメリカ軍は、新しい敵は、ソ連、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国等の共産国と考えますから、日本とは講和を結ぶようになります。 かくして、日本は、降伏ではなく、講和することで、太平洋戦争を終結することになります。ただし、朝鮮戦争への派兵が条件になるでしょう。 朝鮮戦争は、4年間、ベトナム戦争は、1965年のアメリカ軍本格介入北爆開始から1975年のサイゴン陥落まで10年間、戦い続けて、アメリカ軍は勝てなかったのである。アメリカ軍は手抜きをしていたのではない。太平洋戦争並みに総力戦をしていたのに、勝てなかったのである。日本軍が、1945年から後5年戦争し続けることは可能であった。 ただ、後5年間戦争し続けることの可否は別問題である。戦争被害は甚大となり、戦後復興が10年間遅延することになる。5年間天皇がアメリカ軍に逮捕されないか、天皇に5年間戦う気が継続するかである。 この話は、長くなるので、別の機会に又述べます。 G 徴兵制は禁止する。 志願制にするわけである。嫌がる者に銃を持たせても戦場の邪魔である。志願兵だけで勝利できないということは、そもそも国民投票でも賛成四分の三も集まらないから、宣戦布告はしないこととなる。ドイツ憲法では、良心的兵役拒否の思想が保障され、兵役の代替労働が決まっている。 H国防軍を国外へ派遣するときは、国民投票による承認を必要とする。 国防軍の海外派遣にも、国民投票を必要とさせる。 勿論、災害派遣の場合は、国防軍として派遣させるのではなく、消防庁出向部隊として武器なしで派遣するから国民投票は不要である。現地で攻撃されたら直ちに撤退し、国民投票で国防軍の派遣の是非を決定することとなる。イラクへ自衛隊が派遣されていたが、憲法改正後は、国民投票で決定することになる。 国連で国連軍の派遣を決定しても、国民投票が必要である。国民投票で否決されれば、派遣はできない。国連から制裁があれば甘受するしかないが、現在国際連合は弱い強制力しかなく、制裁を決めることはない。 本当は、国際連合は五大国制度を廃止し、加盟の各国の平等決議権のもと、強力な平和維持軍制度を構築すべきであり、反対国には経済的制裁を課しうるようになるべきである。 日米安保条約上の義務として、派遣がありうる場合でも、国民投票を必要とする。 I国防省大臣は、文官とする。国防軍の将校は、選挙での投票を行うほか、政治活動が禁止される。 国防省を設置し、大臣は、文官とする。戦前は現役武官が大臣に就任したが、文官統制の観点から武官には大臣に就任させないこととする。 国防軍将校は、政治活動が禁止されるが、ただ投票のみが許される。戦前の5・15事件2・26事件のように将校が兵士を徴発してクーデターを起こすことを禁止する。政治活動としての言論の自由も否認される。手に武器を持っている者の、言論の自由は、国民の言論の自由と同視するわけにはいかないのである。 兵士は将校と違い、部隊指揮監督権がないから、言論の自由、政治活動の自由を制限する必要はない。兵士は軍の命令に服して死地に突撃する義務があるが、言論の自由は絶対的に保障されなければならない。戦争に反対ならば、突撃して死ぬ前に、その反対の理由を発表する自由を認めなければならない。鹿児島知覧特攻隊基地の資料館には、特攻隊員の遺書が多数展示してあるが、政治的意見はひとつもない。書くことを禁止されたからである。いいたことも言えずに、死ななければならなかった無念は耐えられない。 将校で政治に志を抱く者は、軍人を辞し、国会議員選挙に立候補すべきであり、将校である以上、手に武器があることを慎み、政治から離れるべきである。 J国防軍は内閣総理大臣の指揮下にあり、他国の指揮下に入ることは禁止される。 国防軍は最高司令官の内閣総理大臣の指揮下に入り、決して外国の指揮下に入ってはならない。日米安保体制で日米軍が共同作戦を取ることがあっても、国防軍をアメリカ司令官の指揮下に入れるべきではない。 K軍法会議は認めない。戦時中の死刑の執行は停止される。 戦争中、前線で、兵士が、逃亡罪、抗命罪、に問われたり、或いは空腹の余り食料を盗んだりすれば、戦地の即決裁判で死刑となった。即時銃殺なのである。銃殺となれば、名誉の戦死ではなく、恩給も出ないし、靖国神社にも祭られない。戦場では、平時に訓戒程度で済むパン一個の窃盗でも、軍紀維持のために死刑にする場合もある。しかし、人の命は代えがたく、尊い。戦後死刑にしなくても良かったとの悔恨が心を打つ。 戦場の即決裁判では、慎重に審理することもなく、弁護人もおらず、敵軍が接近してきただけの理由で、裁判を打ち切り、処刑を急ぐこともある。必要のない死刑が乱発され、人権侵害が甚だしかった。 戦前ゾルゲ事件があった。 昭和8年ドイツ新聞社特派員の肩書きで来日したリヒアルト・ゾルゲは実はソ連共産党員でスパイとして日本に派遣された。彼は稀なる個性で日本政界官界、ドイツ東京大使館に食い込む。ドイツ大使オットーは彼を信頼し、ベルリンからの情報を漏らしてしまうのである。彼の成果は、ドイツの対ソ攻撃バルバロッサ作戦の開戦日、日本軍の対ソ連戦ではなく南方侵略作戦への方針転換を察知し、スターリンへ打電したことである。彼はスパイ目的の達成と危険を感じて日本脱出を準備していたが、日本警察は遂にゾルゲスパイ団を察知し、昭和16年10月ゾルゲとその部下、日本人協力者35人が逮捕される。 尾崎秀美は近衛文麿首相のブレーンであったが、共産主義に惚れたのか、ゾルゲに惚れたのか、分からぬが、南方侵略作戦への方針転換をゾルゲに洩らしてしまう。 治安維持法、軍機密保護法違反で、ゾルゲと尾崎は昭和18年5月東京地方裁判所から死刑の判決を受ける。当時戦時特別法で、第二審が廃止されており、ゾルゲは大審院へ上告する。しかし、ゾルゲの国選弁護人は上告趣意書を期限内に提出することを忘れ、上告棄却死刑確定となってしまう。 昭和19年11月17日ゾルゲと尾崎は東京爆撃のなかで死刑執行される。 ゾルゲと尾崎、類稀なる個性、百万人とても我いかん、自分の意思だけで生きた男であった。 死刑にすることはなかった。残念の限りである。終戦まで生かせておれば、ソ連との取引材料にもなった男である。日本政府は昭和19年段階で対ソ連外交を真面目に考えていたのであろうか。私はそれとは別に、彼を生かせて戦後の世界を見せ、語らせたかった。 彼は戦後長くは生きられなかったと思う。戦後ソ連に送還されれば、彼は英雄として歓迎されるべきであるが、スターリンは決して許さないであろう。スターリンは彼のドイツ対ソ攻撃の電文を信用せず放置しておいたのである。そのため、昭和16年6月22日ドイツ軍の攻撃に対して何らの防備も用意していなかった。国境から600キロ電撃侵略を許し、初戦ソ連軍は壊滅するのである。 スターリンの無能の生き証人、ゾルゲ、彼も帰国すれば、かっての同僚で国際共産主義の英雄である革命家達がスターリンの粛清で死刑となっている現実を見て、共産主義に絶望したと思う。スターリンはゾルゲが日本官憲に何を喋ったか、を査問し、口実を探して必ず処分するであろう。 しかし、もしも、シベリア送り程度で済んで、彼が80歳まで長生きできれば、昭和49年である。反ソ文学で昭和45年のノーベル賞作家ソルジェニーツィンは昭和49年ソ連からドイツに追放されている。 ゾルゲとソルジェニーツィンとを語らせたかった。 終身刑でもなんでも良い。生きておれば何とかなる。戦時中、手続き手抜きで弁護人もなし、公開裁判もなし、適正な異議の手続きもなし、パン一個の窃盗でも死刑、このような即決裁判で数多の内外人が死刑にされている。戦時中、適正手続きの異常事態下であることから発生する人命の損失を回避するために、通常裁判も即決裁判も含めて、全部死刑の執行を停止して、戦後に再審を可能とすべきである。 ( 余 談 ) 1、攻めて来る国があるか、という議論があり、ソ連は攻めてくる前に滅びてしまった。現在日本を攻めてくる国はいない。だから、自衛隊はいらない、という議論がある。朝鮮民主主義人民共和国も拉致する程度で戦争まではできない、と言う。 2、私は、第二次朝鮮戦争も東アジア戦争も有り得ると考える。 朝鮮戦争を振り返ってみよう。 1945年8月15日太平洋戦争敗戦の後、ソ連軍が金日成を連れて北鮮を、アメリカ軍が李承晩を連れて南鮮を占領した。 1948年8月15日南で、大韓民国の独立式典、9月9日北で、朝鮮民主主義人民共和国の独立式典が開催された。このころ中国では、内戦が進行しており、国民党の中華民国は敗北して、台湾へ逃亡し、中国共産党は1949年10月1日中華人民共和国を建国する。ソ連は中国共産党を、アメリカは国民党を応援したが、アメリカは最後まで武器援助にとどめ、直接介入は避けた。このことが、金日成にある決断をさせた。 金日成は、スターリン、毛沢東と協議して、朝鮮戦争支援の承諾を取り付けた。アメリカは直接介入をしない、アジア大陸は太平洋まで共産主義が支配する、との予測の元にである。朝鮮民主主義人民共和国の兵士はソ連で、戦車とミグ戦闘機の訓練を積み、1950年6月25日38度線を越えて怒涛の進撃を開始した。これは全くの奇襲攻撃となり、28日には北戦車隊のソウル突撃となった。米・英・仏が国連軍として派遣を決定したが、金日成戦車隊の進撃は早く、8月には、釜山を見下ろす山まで到達し、大韓民国 軍と米軍を太平洋に叩き落す寸前までに至った。 9月15日マッカーサーは仁川上陸作戦を行い、南下している北鮮軍の脇腹を襲った。補給路が伸びきっていた北鮮軍は撤退を開始し、10月10日には韓国軍が38度線を北に越えた。10月20日韓国軍は平壌を占領する。北鮮軍総崩れに直面した、金日成と毛沢東は、中国人民義勇軍の投入を決意し、人海戦術の怒涛のごとき歩兵集団を戦場に投入した。1950年12月2日北鮮軍は平壌を奪還し、1951年1月4日ソウルを再占領する。その後一進一退となり、1951年3月15日韓国軍はソウルを奪還し、38度線まで押し戻す。4月11日マッカーサー司令官がトルーマン大統領に解任され、1951年7月1日休戦交渉が始まる。1953年3月5日スターリン死去、7月27日休戦協定締結 死傷者は、韓国軍30万人、米軍14万人、その他国連軍14000人、北鮮・中華人民共和国で200万人とも言われている。北鮮・中華人民共和国軍は、人海戦術を用い、人命尊重などの思想はなく、ただ肉弾突撃を繰り返し、死者の山を築いた。ドイツと戦ったソ連軍も同じであったが、戦勝国の方が戦死者の数が多いのである。ソ連軍には、督戦隊という共産党の政治将校によって組織された部隊があり、後退する友軍兵士に向かって督戦射撃をするのである。このように共産軍には、人命尊重なし、であるから、戦死者の数が突出するのである。 第二次朝鮮戦争と東アジア戦争 1、1975年4月30日南ベトナムのサイゴン大統領官邸に北ベトナム戦車隊が突っ込み、国旗を引き摺り下ろしたが、金日成は、感慨を持って息子の金正日に話したと思う。 「見てみよ。1950年ソウルへ突入した時と同じだ。たった、25年前のことだ。ソ連のT型戦車の鉄の音、煙硝の臭い、勝つときは、こうして勝ったのだ。戦争は、大砲と戦車の圧倒的破壊力でこじ開け、歩兵の展開力で勝利するのだ。1945年4月ソ連戦車隊がベルリンを陥落させたが、同じことだ。一国の首都を陥落させるには、砲兵隊の一斉射撃と戦車隊の突撃しかない。」 「何故、朝鮮戦争に我らが勝てなかったのか、はた又負けなかったのか、その総括が必要である。 負けなかった理由は、朝鮮人民軍のゆるぎない愛国心、中国共産党の同胞的支援、ソ連の軍事支援、である。大日本帝国はあしかけ5年間アメリカと戦い、完璧に打倒された。朝鮮戦争は4年間続いたが、アメリカは勝利できなかった。あの大日本帝国を打ちのめしたアメリカに負けなかった教訓は大きい。何度アメリカと戦っても、負けることはない。 アメリカに勝利したベトナムは偉大である。わが戦車隊兵士も北ベトナム軍に参加して教訓を得ているし、勝利の教訓は朝鮮人民軍の伝統となる。 勝てなかった理由は何か。 日本が補給基地となったからである。朝鮮半島で負傷した将兵も、破損した戦車も日本へ運送して直してしまう。日本が補給基地の役割を果たし、野戦病院、兵器工場の役割を果たしているし、出撃基地にもなっている。アメリカは中国領土内の基地を爆撃したが、我々はついに日本領土内のアメリカ軍基地への爆撃ができなかった。後衛を叩かない限り前線の勝利はない。 もうひとつ、南で叛乱を組織できなかったことである。 南を解放しない限り、朝鮮民主主義人民共和国の統一の使命は達成できない。ベトナム人民がアメリカに勝利しえた教訓は何か。ベトナムの補給基地は、グァムと日本と遠すぎたのである。今度戦うべき第二次朝鮮戦争では、日本攻撃なくしては勝利できない。」 金日成は金正日に第二次朝鮮戦争の心得を何度も教えたはずである。 1968年1月朝鮮民主主義人民共和国軍精鋭突撃隊31人がソウルの大統領官邸の朴大統領暗殺を狙って、38度線非武装地帯を突破してソウルに侵入したが、失敗して全滅した。全員大韓民国 軍の軍服を着用しており、国際法違反であり、捕虜になっても保護されない。この戦術をとったのは、ヒットラー以来である。 1983年ビルマの建国の英雄アウンサン廟で訪問中の全斗換大統領を暗殺するために、二人の将校を私服でビルマに潜入させ、アウンサン廟で爆破工作をさせ、韓国政府幹部多数の爆殺には成功したが、朴大統領一人は逃してしまった。敵対国の大統領を第三国で攻撃する、しかも私服で攻撃することは、国際法の戦争とは言えず、私闘、テロである。金日成は国際法を何も理解していないことが明らかである。 1988年大韓航空機爆破事件では、敵航空機撃墜の赫々たる戦果を挙げた。工作員は私服を着て大韓航空機に乗り込み時限爆弾を仕掛け、逃走を図ったが、空港で逮捕され、所持していた毒薬で自殺している。同行の女性工作員キンヨンヒは毒殺に失敗し、韓国へ護送されて全てを自白した。なぜ金日成は民間航空機を狙ったか、アメリカ軍が日本商船隊を攻撃したのと同じ発想なのである。金日成はひとかけらも悪いことをしたと思っていない。 驚異なのは、自殺した工作員である。失敗したら、証拠隠滅のためにも自殺するとは、戦国時代の忍者のようであり、現代でこんな規律を守っている軍隊はない。失敗したら捕虜になって終戦後帰国するだけのことである。 5年前韓国南東海岸に接近した北潜水艇は故障したため、乗組員全員が一旦上陸したが、水兵は全員射殺され、1人2人の工作員が銃撃戦を重ねながら歩いて北へ帰還した。潜水艇水兵は銃撃戦の足手まといとなり、捕虜になれば機密漏洩となる恐れから水兵を射殺したのであるが、水兵たちは抵抗をしていない。恐るべき規律である。 2年前の北不審船追跡事件では、日本巡視船に対して機関銃とミサイルを発砲した上、自沈して北乗組員全員が死亡している。一人も救助を求めていないのである。 太平洋戦争の特攻は、昭和19年秋のフィリピン戦線から昭和20年沖縄までの短期間である。短期間だからこそ特攻ができたのである。1年も2年も続けば、特攻は兵士の精神的消耗から尽きてしまう。しかし朝鮮民主主義人民共和国軍では昭和25年から今まで特攻が継続しているのである。この恐るべき国軍を相手に日本はいかなる防衛策を構築すべきか、余りの難問に頭を抱える。 金日成は朝鮮戦争停戦後も戦争は継続していると考えている。彼の戦争には国際法の制約はない。宣戦布告をせず、軍服を着用せず、非戦闘員、捕虜に対する保護の考えはない。どんな汚い戦法でも勝利すれば許されると考えている。部下の兵士に対しては、勝利には褒章を、失敗には死を、ということである。 9.11テロのイスラム原理主義者と同じであり、彼らが固い同士愛で結ばれたら恐怖である。 金日成の作戦は、南に勝利するためには、38度線の正面から戦車隊による突撃である。ゲリラやテロでなしうることは後衛の日本に対する攻撃である。 2、金正日とは如何なる男か。 単なる映画好きの飲んだ暮れのアル中男ならば、世界は平和である。 しかし、金正日の骨相を見ると、決断すればやる男の相が見られる。 武田勝頼という武将がいた。父武田信玄(1521〜1573)は徳川家康を三方が原で破り、織田信長との決戦途上で三河野田城攻囲中に病死する。 勝頼は、1575年長篠で織田徳川連合軍と戦うが、鉄砲隊に対する騎馬兵団の突撃を繰り返して全滅する。長篠撤退後、甲州に立て籠もるが、織田軍の甲州攻めにより、一族郎党は次々と離反し、1582年天目山の麓で家族とともに寂しく自刃する。 勝敗は結果から見れば簡単なことである。しかし、やってみなければ分からないのも、勝敗である。勝つべくして勝つは少なく、負けるべくして負けるは多い。しかし、本当は、結論は誰も読めない。ただ、天下の武将は、結論を見たい誘惑に抵抗しえず、賽を振るのである。 太平洋戦争の東条英機、山本五十六にしても、負けると思ってはおらず、引き分け和平の読みで開戦の決断をしたはずである。二人とも陸軍大学、海軍大学の優等生である。しかし、結果は完敗である。賽を握る者は結果を見たくて振りたくなるのである。将兵、国民の運命さえ賽とともに振りたくなるのである。 昭和16年当時太平洋での日米海軍比は、若干日本優勢であった。空母と戦艦の数で優っていたのである。アメリカは日本の中国撤退を要求し、石油禁輸の制裁を課していた。優勢な海軍も燃料切れに陥る危険を打破する為に開戦して、インドネシアの油田侵略を目指したのである。売らなければ強奪してやる、ということである。東条・山本の戦略は、大東亜共栄圏建設であったが、真面目に準備した形跡がない。フィリピン、インドネシア、タイ、ビルマ、インドと現地民族の独立と解放、日本との共栄圏の建設を目的というのならば、現地語を話せる通訳を何万人も用意しなければならないのであるが、何の用意もしていない。6か国の大東亜共栄圏会議を昭和18年11月に開催するものの、嫌がるアジア指導者を集めたようなもので具体化がない。昭和16年に大東亜共栄圏建設の確たる構想を持っていたか、全く疑問であり、燃料欲しさの強盗の論理の後付けとしか考えられない。 東条も山本も、当時の海軍力の小差の優勢に魅惑され、手持ちの賽を振ってみたかったのである。 しかし、戦場で散った兵士は、この大東亜共栄圏思想を信じ、英米の植民地支配から解放しようとし、戦後もインドネシアとかベトナムでは現地軍に参加して独立戦争に助太刀した兵士も多い。戦争指導部のいい加減な嘘と、信じた兵士の落差が大きすぎる。 ヒットラーにとっては、ソ連攻撃は人生の最大のテーマであった。共産主義者スターリンは不倶戴天の敵であり、勝敗を問わず、戦うしかない相手だったのである。ドイツは1941年イギリスと開戦し、東部に戦場を開くことは、二正面作戦を余儀なくされるし、それは第一次大戦て苦しんだ作戦なのである。しかも1941年6月にソ連侵攻ということは冬がすぐ来るのである。ナポレオンを滅ぼした冬将軍がヒットラーへも襲うことになる。ドイツの戦争遂行能力からして、勝てないソ連戦の犀を振ったヒットラーは、勝敗を問わず、振らずにおれなかったのである。 金日成の二代目、金正日は、武田勝頼に似ている。二代目は初代と比較され、初代の権威をそのまま引き継げれることは稀である。侮られることを乗り越えるために無理な出撃も必要となる。長篠で勝頼は賽を振ったが、金正日はどこで賽を振るのか、あるいは振らないまま、世を終えてくれるか、朝鮮、日本の運命がかかっている。この運命の重さを自覚する者は、必ず魅せられた様に振るであろう。 父金日成の死亡後、金正日は、南の叛乱と日本攻撃の作戦を考えるも、朝鮮戦争不敗の理由のひとつである、中国共産党の支援を抜きにしては不可能であるが、現在中国共産党は内政に重点を置き、朝鮮民主主義人民共和国の冒険には歯止めをかけており、第二次朝鮮戦争をはじめても、中華人民共和国からは支援を得られず、勝ち目はない。 勝つためには、どうしたら良いのか。台湾解放戦争である。中国共産党を引きずりこむ為には、台湾解放戦争が必要である。中台間に緊張を発生させること、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の戦争、中華人民共和国と中華民国の戦争、第二次朝鮮戦争から、東アジア戦争への発展の中で、生死を賭ける。 中華人民共和国の経済的発展と政治的混乱、資本主義化、中国共産党は舵取りに難しいところであるが、苦境になると、対日批判のカードを切って、国民の関心を振り向けるであろう。尖閣諸島での石油開発を進めれば、日中が対立せざるを得なくなり、中華人民共和国国民の対日批判がエスカレートし、対日暴動が発生する。同時に台湾解放がテーマとなれば、東シナ海が戦場となる。 金正日は、その日を待っているだろう。 中華人民共和国内の朝鮮族が中華人民共和国軍にも多数入っているが、金正日はありとあらゆる手立てを使ってでも、東シナ海での戦争、尖閣諸島での日中戦争、台湾解放戦争を仕向けるであろう。中華人民共和国軍内部の強硬派は金正日の友である。鉄と血の臭いの中でしか、生きられないコミュニストの軍人達は連帯しあって、平和を憎悪するであろう。 38度戦を越えてのソウル突撃は、戦車隊によるとして、補給後衛である日本攻撃には、テロリストの戦術を採用するであろう。チェチェンのモスクワ公会堂占拠事件、ボリビアでの国会占拠事件が教訓となる。 日本人を拉致して進めてきた日本語教育活動により、1000人の日本語堪能な兵士が用意されれば、ある種の作戦が用意できる。 1000人の兵士を空港から偽バスポートを持たせて入国させる。武器は第三国からの輸入品に偽装して日本に搬入するか、近海で受け渡しをする。 核爆弾を沖縄に持ち込み、アメリカ空軍基地の近くに仕掛ける。 尖閣諸島で日本と中華人民共和国とが紛争を起こし、台湾海峡でも中華民国と中華人民共和国とが砲火を交えたとき、金正日は38度線突破を戦車隊に命ずるとともに、対日派遣軍に攻撃を命ずるであろう。 金日成は、朝鮮戦争を起こしたり、停戦中であるのに、ソウル大統領府の襲撃を命じたり、第三国のビルマに工作員を派遣して韓国大統領の殺害工作をさせたり、大韓航空機を爆破したり、やりたい放題である。金正日が亡父の遺志を継いで、韓国に攻め込んだり、日本のアメリカ基地に核爆弾を仕掛けたり、日本国会開会式に突入して天皇と国会議員を人質にとり、身体に毒針付き携帯電話を固定すれば、ピョンヤンからでも毒殺は可能である。金正日は映画監督である。天皇と阿部首相のそっくりさんの俳優を演技させて日本と朝鮮民主主義人民共和国の平和条約を調印させて、日本に第二次朝鮮戦争中立宣言をさせ、アメリカ軍に対して日本撤退要求とをすることだってさせるだろう。金正日は天皇を拉致したいであろう。 ボリビア国会占拠事件、ペルーの日本大使館占拠事件、モスクワの劇場占拠事件、そして9.11テロを真似すればどんな恐ろしいこともできる。 交戦権と中立の思想 20070811 憲法第9条戦争の放棄 @日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。 A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 ここに交戦権と書いてある。交戦権とは何か。 A説は、文字通り、国家が戦争を行う権利と言う。 B説は、国際法上、国が交戦国として認められている各種の権利(船舶の臨検、拿捕、貨物の没収の権利、占領地行政に関する権利など)を総称する。 C説は、A説とB説を総和する。 私は結論的にC説に同意する。 臨検、拿捕、没収の権利とは何か。交戦国が相手国の船舶を攻撃し、臨検拿捕できることは当然のことであり、戦争行為の本質であり、交戦権の行使そのものである。他国へ攻め入り、財産を捕獲し戦利品とすることは交戦権の行使として合法であった。 ここで言うのは、中立国に対する臨検、拿捕、没収のことである。 日清戦争のとき、後の日露戦争での連合艦隊司令長官となる東郷平八郎が艦長を務める日本軍艦が黄海で清国将兵を輸送中の英国商船を発見し、停船命令信号を発した。しかし清国将兵は日本の捕虜になることを潔しとせず、英国人艦長を脅迫して逃走しようとしたので、東郷艦長は発砲して撃沈させた。東郷艦長は英国船を停船させて、英国船を拿捕し、搭載の軍事物資を没収し、清国将兵を捕虜にする計画であった。 日清戦争当時、英国は中立国であった。英国が日本と日英同盟を締結するのはその後の日露戦争時である。英国世論は自国船舶が撃沈されたので激高したが、英国法律家が、「東郷艦長の処置は戦時国際法から見て正しい。戦争当事者国の将兵を輸送中の中立国船舶は停船命令に応諾し臨検を受ける義務があり、停船しなければ撃沈されてもやむを得ない」と論評したことにより英国世論は静まり、国際法を知る東郷艦長の名声が高まった。 臨検、拿捕、没収の権利とは、以上のようなことを言うのであり、交戦当事者国以外の中立国に対して発動できる権利なのである。第一次大戦の初期、アメリカは欧州戦争に対しては中立国であったが、英国に対して軍事物資の支援を行っていた。ドイツ潜水艦Uボートはアメリカ輸送船に対して臨検し英国向けの軍事物資が搭載されているときは拿捕、没収していたが、すこぶる効率が悪いし戦闘海面では危険すぎる。臨検中にアメリカ軍艦が到着すれば揉めるし、英国軍艦が到着すれば砲撃戦となり、武装の弱いUボートは圧倒的に不利となる。潜水艦は隠密に行動しないかぎり戦闘能力を発揮できない。そのためドイツ海軍は途中からアメリカから英国へ向かう船舶に対して無差別無通告雷撃を行うようになった。このためアメリカはドイツに対する宣戦布告の口実を得た。 交戦権 A説は交戦権を、国家の戦争をする権利と解釈するが、その意味の詳細を述べない。そもそも国家に戦争をする権利なるものがあるのか、純粋法哲学の観点から認められるのであろうか。 天賦人権、自然法の精神から、人間に生きる権利があることが容易に認められるように、人間に他人を殺す権利が認められるのであろうか。認められるとすれば、殺人罪と処罰としての死刑はあり得ないこととなる。人が人を殺すことを違法として国家が処罰することを認めてきたのは法思想史の示すところである。しかるに国家が他の国家を攻撃し、他の国民を殺すことが国際法上認められてきたのか。問いたいところである。しかし、結論は然りと言うしかない。歴史は国家の交戦権を認め、国家による他国の国民の殺害を合法とし、処罰したことは長い歴史の中でなかった。歴史では報復による殺戮の繰り返しがなされた。しかし歴史が進化するとともに、法も進化する。国際法で、交戦権の制限が進化し、第9条戦争の放棄につながってきたのである。 かく考えて来ると、交戦権とは、国家の国際法上の権利というのではなく、国際法と呼ぶべき規範がない時代の、事実としての戦争行為と見るべきである。 歴史を見れば、征服と侵略の繰り返しである。エジプト、メソポタミア、アレキサンダー、ジンギスカンと続く。近世になっても、スペインのピサロによるインカ帝国征服がある。近世になって国際法らしきものが生まれ、交戦権の制限が始まる。 人類史から見ると、ホモサピエンスと呼ばれる新人類は、猿人、ネアンデルタール人の旧人から分かれ進化してきた。人類は生物学的には雑食であり、狩猟を主としてきた。農耕を始め、文明を建設するのはもっと後のことである。虎が兎を捕獲して生きてきたのと同じように、人類は動物を捕獲狩猟して生きてきたのである。人類が高等生物となれたのは、集団狩猟する中、右から追え、左から待ち伏せせよと、言語能力が高等化し、意思の疎通が可能となったからである。新人と旧人との違いは言語能力にある。旧人の中から突然変異で言語能力を得た新人が旧人を圧倒し新人が生まれたのである。新人はゴリラを捕獲して食い、新人と旧人とが共存した時代には新人が旧人を捕獲し、旧人を食いつぶしたと見られる。新人間でも共食いの習慣は長く続いたと見られる。動物世界に於いて共食いは普遍的に存在する。新人についても見られたし、新人が文明を建設して後も長く共食いの習慣は続き、20世紀のアフリカでもニューギニアでも中国でも、死んだ英雄の聖霊を受け継ぐ英雄信仰の一種として共食い習慣が残っていた。 現代では共食いは文明的に宗教的に禁止され絶望的飢餓の特殊状況以外みられなくなった。精神病の犯罪者が死肉を食うことがあるが、これは彼の脳髄に残された遺伝子の先祖帰りである。 エジプト、メソポタミア、アレキサンダー、ジンギスカン、スペインピサロによるインカ帝国征服がある。これらは狩猟行為をしたのであり、何故他国を攻めて殺人、強盗、強姦をする権利があるかと、アレキサンダー、ジンギスカン、スペインピサロが問われても、問う方が馬鹿だとして殺されてしまうに違いない。 宗教が入ると、交戦権は権利ではなく、神への義務となる。イスラム教とキリスト教、カトリツクとプロテスタントの戦争は異教徒撲滅、改宗強制であり、神の命令として実行され、戦争は聖戦となり殉教者には天国が約束された。 元来、交戦権とは狩猟の権利なのである。生物界の食物連鎖原理がもたらす生きる為の事実行為である。自然の摂理、自然法から言うと、兎を食うも、人を食うも、自然のまま、疑念のない合法行為であった。 捕鯨権という概念がある。捕鯨反対国は資源保護の理由から捕鯨を制限しようとし、捕鯨国は漁業権を根拠に制限に反対している。漁業権は狩猟権と同じことである。 近時は、捕鯨を制限する考えとして、鯨類は人類と同じような高等知能ほ乳類だということを言う向きも出てきた。共食いの禁止という文明的宗教的な理由である。 奴隷を狩猟することはエジプト時代から続いてきた。戦勝国は戦敗国民を奴隷にし、財産に出来るのである。 19世紀にはヨーロッパ人がアフリカの黒人を狩猟し奴隷として新大陸へ売却することが広くなされていた。ヨーロッパ人がアフリカの黒人を狩猟することは何故許されていたのか。交戦権があるからである。勿論狩猟戦に負けると逆に奴隷にされる危険はある。19世紀までは誰も奴隷を狩猟することが違法であるとは思ってはいなかった。しかしアメリカの南北戦争では、黒人の人間性承認が叫ばれ、奴隷狩猟の是非が戦われ、この南北戦争を通じで人類は奴隷狩猟の禁止を国際法の原則とした。南北戦争はアメリカの内戦ではない。アメリカはヨーロッパ各国の植民地であり、アメリカそのものが国の連合であり、国際戦争たる南北戦争は奴隷禁止という国際法を生み出したのである。アメリカ白人何万人の犠牲者の山に上に国際法が樹立されたのである。ここにより、奴隷狩猟を目的とする交戦権は否定され、奴隷の解放と人類の平等思想が生まれた。 共食いの禁止、奴隷の禁止、捕鯨の禁止へと文明の進化が見られる。ただ捕鯨の禁止が、高等知能ほ乳類の平等という思想になっていくかは疑問が残る。 各国憲法では、交戦権の制限についてどう進化してきたのか。 ハムラビ法典以来交戦権の制限を規定する法典は近世までなかった。交戦権の行使即ち征服権が高らかに宣言され、世界征服と領土の拡張が国家の崇高な理想、神への忠誠として信じられてきたのである。元の日本侵攻も、秀吉の朝鮮出兵も、領土拡張と他民族への徴税権の行使が目的である。韓国では秀吉の朝鮮出兵を恨みとするが、元寇では高麗国は元の支配下に入り、元の先兵となって対馬壱岐博多へ襲来したのである。元寇も朝鮮出兵もお互い様の歴史である。 交戦権の制限についての最初の法典は1791年のフランス革命憲法である。 「フランスは征服の目的でいかなる戦争をすることを放棄し、どの国民に自由に対しても決してその武力を使用しない」 フランス市民革命は平和と人権思想にとって素晴らしい進化を示したが、反動の嵐も強烈であり、この憲法は長続きしなかった。その後ナポレオンはヨーロッパ各国を征服し、最後はモスクワまで征服し、モスクワ王宮からの略奪品を満載して帰国仕掛けたが、冬将軍の到来の中、ロシアの追撃戦に遭い、丸裸でパリに逃げ帰っている。 1907年のハーグ条約は「契約上の債権回収のための戦争を禁止」 1928年不戦条約は「国家の政策の手段としての戦争の放棄、一切の国際紛争に対し平和的手段によるほかの処理または解決を求めない」 大量殺戮兵器の登場による未曾有の戦死者をだした第一次大戦の教訓から戦争禁止、交戦権の制限が広まったのであるが、ナチスドイツと大日本帝国の反動により第二次大戦は最高の戦死者をだすこととなった。 憲法第9条戦争の放棄は交戦権を否定したが、その意味は前記の歴史が示すとおり、交戦権の制限の過程であり、自衛権までを含めた交戦権を否定したのではない。第9条戦争の放棄は1928年不戦条約と文章が似ており、第9条の原典と見られる。 要するに、交戦権の否定とは、国家政策の手段としての戦争即ち征服戦争を否定したのであり、自衛権の行使としての自衛戦争まで放棄した意味ではない。現在の各国憲法の中で自衛権まで放棄した憲法はない。 非武装中立の思想 戦後社会党、革新の思想は非武装中立であった。その非抵抗主義の清々しさが魅力的であった。 しかし、古今東西の歴史を見ても、非武装中立の例はひとつもない。本当にひとつもない。武装中立という例はままある。 中立という概念は、自国と敵国と第3国を前提に考えなければならない。 関ヶ原では土佐の長曽我部は東西どちらに味方するか決心の付かないまま、石田三成について関ヶ原まで行ったが、家康にお味方したいとの密書を持たせた密使が家康まで届かず、関ヶ原戦場の後方でどちらへも発砲もしないまま終えた。中立を守ったわけであるが、戦場の掟は、どちらかに味方することであり、中立は許されなかった。長曽我部は土佐を召し上げられ浪人となった。 戊申戦役の時、長岡藩は薩長から倒幕の軍を差し出すよう命じられるが、中立を宣言する。しかし戦争にあっては、どちらかに付いて戦うかしか選択はあり得ないのであり、薩長は長岡藩の中立宣言を敵対と見なして長岡藩へ攻め込んだ。長岡を焼け野原にする戦争が行われ、一時は善戦するも最後は敗れて会津まで逃げていった。このように戦時にあって、中立は成りがたいのである。 A国とB国とC国があるとする。A国とB国が戦争した場合、C国が中立を宣言したとき、A国もB国もC国の中立を信用できない。C国がいつ中立を破棄するか疑心暗鬼となる。C国が戦略的拠点にあるときは、A国はB国がC国を占領する前に先に占領してしまえと決断する。A国はC国に同盟するか否かの通告を発し、イエスの返事がなければ、宣戦布告することとなる。 従って、C国が平和主義の国としても武装していなければ、中立も維持できないのである。武装中立は軍事費が掛かりすぎる。C国はA国からもB国からも攻撃がありうることを前提に武装しなければならない。C国がA国と同盟してB国に対抗すれば、自国の軍事費は安くて済む。しかし中立政策を取ると、A国とB国が同時にC国を攻撃することもある。だからC国は二倍三倍の軍事費が必要となる。昭和14年ドイツとソ連は同時にポーランドを攻撃し、ポーランドを東西二分割してしまった。ヒットラーとスターリンの密約があった。ポーランドが英仏と軍事同盟を締結していれば避けられたであろう。 非武装中立の高邁な理想は現実に役立たない。 現在の東アジアを見ると、日本、中華人民共和国、大韓民国 、朝鮮民主主義人民共和国、ロシア、アメリカが対立している。日本は既にアメリカと軍事同盟を締結し軍事基地を提供しており、中立ではない。 中華人民共和国、ロシアがアメリカと戦う場合、日本国内の米軍基地及び自衛隊基地を攻撃する交戦権がある。いやだと言っても、現実に米軍基地が日本国内に存在する以上避けることは出来ない。 日露戦争では、日本は中国(当時は清)領土内の旅順大連を攻撃した。清はロシアに遼東半島を租借させていたのである。日本は遼東半島の付け根から上陸し、大連旅順まで攻め込んだが、その間中国人の民家を破壊し中国人を追い立てての攻撃であった。清国は日露戦争に対する中立国であったが、日本の遼東半島次いで満州全域に対する攻撃を停止させることは出来なかった。停止させようとすれば、清国が日本に対して宣戦布告する必要があったが、清国はその決断が出来なかった。日清戦争で負けて更に日本と戦う元気はなかった。 日本が清国内のロシア軍を攻撃するのは、日本の交戦権の行使であり、ロシアに軍事基地を租借させた清国は日本の攻撃を甘受するしかない立場(自国民の損害を甘受し、国家資産の破壊と没収を甘受)だったのである。 朝鮮民主主義人民共和国がアメリカ、大韓民国 に対して宣戦布告して第二次朝鮮戦争が起きた場合、同じこととなる。 大韓民国の後背地たる日本のアメリカ軍事基地を攻撃することは、朝鮮民主主義人民共和国にとって交戦権の行使であり、国際法から許される。日本がアメリカに軍事基地の提供をしたことは、戦争を招くこととなる。攻撃された日本はどうするか。清国と同じように甘受するか、アメリカと同盟して朝鮮民主主義人民共和国に対して宣戦布告するか、二者択一である。第一次朝鮮戦争のとき、朝鮮民主主義人民共和国は戦場を朝鮮半島に限定していたが、それは空軍海軍の航続距離の限界だけの理由であった。大韓民国 とアメリカは朝鮮半島で負傷した将兵の治療、破壊された武器の修理、兵站物資の補給は日本で行っていた。戦争の鉄則は後背地の補給を絶つことである。朝鮮民主主義人民共和国軍は日本に直接攻撃しなかったが、第二次朝鮮戦争ではこの鉄則に従い、同じ過ちを繰り返さないであろう。 日本は中立を理想とするが、既にアメリカへの基地提供により、日本は中立を宣言できない位置にある。ならばアメリカとの安保条約を廃棄する選択肢があるが、廃棄したら日本の防衛を単独で出来るのか、論点となる。 非武装中立の理想を思うと、一つだけ道もある。アメリカ、ロシア、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国がある条約を締結する。 日本の非武装中立を保障し、一つの国が日本を攻撃したら、他国が一致してその攻撃国に対し宣戦布告するという条約である。 しかし、今の世では、非現実的である。どの国も日本の安全のために自国の軍事力を提供する気持ちになれる筈もない。まして日本は軍事費を節約でき、経済力が高まり、国際競争力を強めていくのに、何故日本のために自費で防衛をしなければならないのか、異論が出る。ならば日本が各国へ軍事費を提供する、要するに護衛料を支払うシステムを取る。色々考えるが、実用出来ない。現在の日米安保体制次いで国連の集団安保体制に期待するしかない。このアイデアは百年封印する。 朝鮮民主主義人民共和国の潜水艦が大韓民国海岸に乗り上げ、浜辺では乗組員が集団自決し、武装工作員何人が韓国軍と銃撃戦を繰り返しながら北へ逃亡し、そのうち何人かは戦死したが、幾人かは北への脱出に成功した事件が10年前にあった。工作員の送り込みの作戦途中とみられるが、露見するや乗組員は足手まといなのか集団自決させ、武装工作員だけが自力で脱出をはかるとは、何という決意の軍人たちかと驚く。 3年前には日本帰りの工作船が東シナ海で発見され、日本の巡視船に対して携帯式ロケットを発射して抵抗したが、撃沈されるや、乗組員は一人も救助を求めず覚悟の溺死をした。大韓航空機爆破事件では男の工作員は空港で逮捕されたとき服毒自殺している。 これを見ると、軍旗を掲げ、軍服を着用する近代戦争の軍人の姿ではなく、隠密とか忍者を想像する。彼らは国際法の定める捕虜の権利を放棄しているのである。金正日はこのような部下を擁していることを知るべきである。 朝鮮戦争はアメリカと国連、中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国との間に昭和29年停戦協定が成立しているだけであり、講和条約は成立してはいない、大韓民国は停戦協定に署名を拒絶したままであるから、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国、中華人民共和国とは今日も交戦中である。 朝鮮民主主義人民共和国の潜水艦が大韓民国駆逐艦と交戦し、追跡されて艦体破壊のまま日本の港へ例えば佐世保へ入港し造船所に横付けして日本の工員を捕虜にして修理工事をさせたとしよう。 当然、日本の自衛隊は潜水艦を包囲して、日本工員の解放を要求するが、潜水艦は朝鮮民主主義人民共和国の国旗を掲げ、「本艦は朝鮮民主主義人民共和国の潜水艦であり、大韓民国と交戦中である。貴国は中立国なるや、問う」との発光信号を受けたら日本はどうするか。 中立国だと返事せよと言い出す政治家もいるだろう。しかし日米安保条約を締結し、佐世保にはアメリカ第七艦隊が寄港しているのである。日露戦争の旅順と同じことである。日本が中立を宣言すれば、中立の保障を立てねばならない。即ち米軍の撤収要求である。中立宣言など出来る筈はない。 結局、日本政府は、中立質問への回答を棚上げにして潜水艦へ公海への退去を要求し、応じなければ撃沈すると通告することとなる。この通告は宣戦布告であり、現在の憲法体制では、内閣の権限と判断だけで可能となる。憲法第9条戦争の放棄の規定はこれを防止しえない。 朝鮮民主主義人民共和国はこの宣戦布告を受けて日本に宣戦布告をすることが出来る。潜水艦は佐世保港のアメリカ軍艦に対して雷撃することが出来る。潜水艦は日本工員を捕虜にしたまま出航したら日本はどうする。公海の沖合で待ち受ける大韓民国駆逐艦はどうするのか。 昭和14年12月ドイツ戦艦グラーフ・フォン・シュペー号は大西洋で連合国商船に対する通商破壊戦に従軍していたが、英国巡洋艦三隻と交戦し、損傷してウルグァイのモンテビデオ港に避難した。当時ウルグァイは中立国であり、72時間以内の退去を通告したので、艦長ラングスドルフは捕虜を解放して出港し待ちかまえる英国艦隊の前で自沈した。艦長は艦と共に沈んだが、乗組員は救助された。 |
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