戦時中の慰安婦を象徴する「平和の少女像」について
          2021年7月9日

 私は、令和3年7月8日、名古屋市栄の「市民ギャラリー栄」へこの「少女像」を見に行ってきましたが、破裂郵便物の送り届け事件があって、休館となっており、「表現の不自由展・その後」の見学は不可能となった。
 私が何の為に行ったか理由をお話します。
 少女像にお賽銭を献納するためです。
 戦争中、兵士と慰安婦は、戦友と同じ位の心情を抱いていた。
 兵士は月給を貰うと、その大半を慰安婦に支払うと帰り途では、ようやく酒一合が呑める位であった。慰安婦は職業的売春婦であったが、単に金銭だけが目的ではなかった。兵士たちの心の支えになっていた。だから兵士は慰安婦に陰毛の一本を所望し、女も快く応じた。弾除けのお守りにするため千人針の腹巻きに縫い込み、弾除けを祈願したのです。少女像は弾除け観音様なのですから、その両手あたりに円札を献納することは、宗教的、習俗的行為として許されることです。
 慰安婦はお金持ちでした。戦地では軍事郵便局があり、故郷への電信為替送金が可能でした。稼いだ金を戦地で消費することもできませんから、全額を故郷に送金して貯金してもらっていました。浪費家の家族がいれば、悲劇が生まれていたでしょう。軍事郵便局がない戦地では、慰安婦は日本へ帰国する将校に現金軍票を託しました。将校は東京から朝鮮へ電信送金していました。
 慰安婦は自由廃業ができました。昭和19年迄に廃業して帰国した慰安婦は幸せです。大金を故郷に持ち帰りました。豪華な家を新築し、パンパン御殿と呼ばれました。また、売りに出ている遊郭を買い取り、自ら経営者、女将になりました。釜山市の緑町という所に行ってごらんなさい。日本語の通じるタクシーに乗って、「緑町へ」と言えば、連れて行ってくれます。そこは今でも遊郭なのです。
 兵士は慰安婦を戦友以上に大事にしました。昭和20年ビルマ戦線が崩壊し、日本軍はビルマ・タイ国境のイラワジ河まで退却したとき、兵士は慰安婦の脱出を優先させました。兵士が支える仮橋に慰安婦を歩行させていたとき、一人の慰安婦が河中に転落しました。背中に軍票を満載したリュックサックを背負っていたので、安定を欠いて転落したのです。一生かけて貯めた軍票ですから、今の価値で何千万円となるでしょう。慰安婦は兵士たちの必死の救出により助け上げられましたが、リュックは流れ去っていきました。軍票は、敗戦とともに無価値となりましたから、命だけ救われてよかった。兵士たちは、慰安婦と従軍看護婦と戦地慰問芸能団を渡河させると、前線へ戻り、英戦車軍団と最後の闘いに挑み全滅しました。
 兵士のそばに寄り添い、不思議な友情を交換した慰安婦は多い。性奴隷などではない。戦場の天使、観音様である。お賽銭を献納する理由がある。少女像を反日運動のシンボルとしようとする人は歴史を知らない。
 慰安婦の別れの言葉はこうです。
「日本の兵隊さん、死なないで。帰って、また来てね。」
 
 韓国人の戦没慰霊碑は多い。沖縄、広島、長崎、グアム、サイパンにも建立されている。関東大震災のとき、朝鮮人暴動というデマが飛び、多くの朝鮮人と朝鮮人に間違われた日本人、外国人が虐殺されたが、この慰霊碑は東京に日本政府により建立されている。名古屋城内には、軍馬、軍犬、軍鳩の慰霊碑さえある。
 戦没者への慰霊の念は世界共通である。
韓国人が制作した少女像に対して、石を投げるのではく、お賽銭とお線香を献納したいのであります。