裁判員裁判7
 大正デモクラシーと昭和陪審制 」2010. 3. 4
1、幕末から、陪審制の和訳紹介がなされた。
 1862年最初の英和辞典 堀達之助編英和対訳袖珍辞書は juryを「事の吟味の為に誓詞したる役人」と訳した。
 1864年香港で英国ゼームス・レッグ著が漢訳され、日本へ柳河春三により和訳、民間12人陪座聴審と和訳された。裁判官の横で聴く人の意味 →陪審の語源
 1866年福沢諭吉の西洋事情「立会の者」
 1868年津田眞道の泰西国法論 断士、誓士
 1871年加藤弘之のブルンチュリ訳書国法汎論 誓士 裁判官を法士と訳した。
 これら先史的和訳には、「誓」の語があり、陪審員が証人であることを的確に理解している。
 維新後、陪審制を導入するか否かで大議論が展開された。明治憲法制定時には否定されたが、明治末から、政友会平民宰相原敬提案により議論が本格的に始まった。大正デモクラシー、吉野作造の民本主義、護憲運動、普通選挙獲得運動とともに広まった。吉野作造はデモクラシーを天皇制に配慮して民本主義と訳した。
 
 司法省も冤罪に危機感を持っていた。
 大正3年の横田秀男大審院長「私は不幸にして犯罪捜査に当たって検事や司法警察官が往々人権を無視すると言うことを裁判所の内外で耳にする。即ち、濫りに嫌疑者を引致し或いは威嚇し或いは詐術を用い或いは名を浮浪罪に借り暴力を以て拘留し、その拘留中に昔時の拷問に等しい所業を敢えてするという事は時々新聞紙にも載せられ弁護士の談話もあがり又交際場裡の話柄にも出る。・・・刑事裁判に於いては被告は只疑問の人として取り扱うべきものであって、決して犯罪人又は悪人として取り扱うべきではない。博愛寛宏は刑事裁判の上にも遵守すべき道徳である」

2、昭和の陪審制
 大正12年議会を通過して成立し、昭和3年から18年まで実施された。
 施行日の昭和3年10月1日を記念して、以来司法記念日、戦後は法の日とされている。司法の歴史の記念日なのである。司法省は、陪審法廷と宿舎を建設し、広報の為の講演会や映画会を開き、鳴り物入りで普及に努めた。
 司法省の昭和2年の広報パンフレット
「憲法は立憲政治の本義として国権の作用を立法、司法、行政の三に分かち、立法に付いては議会の協賛を必要とし、行政については自治制度を認め国民を立法及び行政に参与させております。そうして憲法の実施以来もう30年余を経過し国民は国政の参与について既に相当の経験と訓練を経ているのであります。独り司法に関してばかり依然として国民の参与を認めないのは時世の進達に伴わない嫌いがある。裁判手続きにも一定の範囲内で国民の参与を認めるのが、立憲政治の本旨に副う所以である。
 裁判官の判断は、職司の性質上、理性にとらわれやすい傾向があるとの批評もある。この際適当な範囲で裁判官でない素人の人々を国民の中から選んで裁判手続きに参与させその判断を加味したならば裁判に対する信頼が厚くなるであろうし、陪審制度を実施すれば、国民は自然裁判所に親しみ法律思想が養われ、従来稀にはあった誤解や疑惑も一掃され、益々裁判の威信を高める。被告人にとっても、国民の中から選ばれた陪審員に依って下された判断が基礎となって裁判されたと思えば、快くその裁判を受けることができる」
 
 裁判官3人と陪審員12人、陪審員は30歳以上、国税3円以上の納税者から抽選、被告人は陪審員に理由無しの忌避を6人まで出来た。
 昭和3年男子の普通選挙が実施され、選挙権者1240万人、陪審員候補者は有産階級の178万人であった。
 重罪事件が対象だが、被告人は辞退できたし、軽罪事件でも被告人が請求すれば出来た。辞退の例はアメリカと同じ。アメリカでは90%の事件が陪審裁判ではなく、司法取引で判決されている。
 陪審員は有罪無罪を多数決で決した。全員一致ではないのが、特徴
 上告は出来るが、控訴が出来なかった。陪審を選択すると一発勝負となった。

 裁判官に対する陪審員の独立の点は微妙であった。
 裁判官の陪審員に対する説示は厳しく規制され、裁判官は陪審員に有罪或いは無罪を示唆することが禁止された。この禁止に違反する説示がなされたときは、大審院で破棄された。破棄事例の多くはこれである。裁判官の説示は法廷で為されるから、弁護人はしっかりメモして上告趣意書に書けた。平成裁判員制では、裁判官の説示は密室の評議室でなされことが問題である。
 陪審員の無罪評決が出たとき、裁判官は不満に思えば、陪審員を更新できた。全員新規陪審員に交替させて、裁判のやり直しが出来た。陪審員の裁判官からの独立性の上で最大の問題点であった。この根拠は明治憲法第24条「臣民は法律に定めたる裁判官の裁判を受くるの権を奪わるることなし」にあった。陪審員は法律に定めた裁判官ではない。だから陪審員の有罪無罪の評決に最終的効力を与えることは憲法上出来なかった。そこで、陪審員法を成立させるために、裁判官の判断を最終とする、陪審の更新制が産まれた。陪審制推進派の妥協策であった。
 この陪審の更新制は、運用により陪審制を自壊させるものであり、危険な禁じ手と当時理解されていた。陪審の更新をすれば、裁判は全部やり直し、陪審員も裁判官も全員交替となった。昭和3年から18年まで、24件の無罪評決に対して陪審の更新がなされ、内17件は有罪に変更されたが、1件は公訴棄却、6件は再度無罪評決が出た。陪審員の抵抗なのである。お上が有罪にしたくとも、無罪は無罪と反骨精神の陪審員がいたのである。裁判官は陪審の更新が禁じ手であることを良く理解していたので、2度目の更新をすることは一例もなく、無罪は確定した。裁判官は陪審員に敬意を表したのである。陪審の更新制さえなければ、昭和陪審制は完璧な陪審制であった。

 陪審更新の二度目の無罪評決例
昭和11年 農家が全焼、現場で31歳の大工が目撃されたとして逮捕、農家から建て替え注文を受けていたが反故にされた経緯があり、動機十分と見なされた。被告人は近くの寡婦と情交関係にあり当夜も訪問したが、長男が帰郷しているから今夜はダメと断られ帰ったが、この情事がばれることを怖れてアリバイを言わずに放火を逮捕翌日に自白した。被告人は法廷で自白を撤回し、アリバイを主張した。寡婦は情交関係自体を否定する証言をした。陪審員は寡婦を性悪女と判断し、無罪の評決をした。裁判官は有罪を確信していたので、陪審の更新を行い、陪審員総員入れ替えで審理やり直しとなった。再審理に寡婦は再度出廷し、今度は被告人の主張に沿う証言をした。陪審員は再度無罪の評決をし、裁判官も認めて二度目の陪審更新をしなかった。

 昭和3年から16年間で、484件の陪審裁判があり、内17%の81件で無罪が出た。当時0.1%の無罪率であったから、驚異的な無罪率である。被告人の数は611人、無罪となった者94人
 殺人事件で、有罪209件、無罪14件 無罪率 6.27%
 放火事件で、有罪136件 無罪61件 無罪率 30.96%
 
 昭和5年の横浜地裁陪審法廷を紹介する。
 女性の放火事件。刑事は「放火とみなし、主人との情交関係から追求すると被告人は自白した」と証言し、被告人は「主人は自白してないのに、刑事は自白したと嘘を言い、図々しい阿女と罵られ、早く返してやると言われて自白した」と涙ながらに証言した。裁判は3日間、証人は21人、陪審員は50分間評議して無罪の評決を下した。

 陪審員は尋問が出来た。
 東京地裁の最初の陪審裁判 女性の放火罪
 被告人は「刑事が自白しなければ帰さないと言いました。新聞紙に揮発油を注いでマッチを付けたのだろうと自白の方法まで教えられました」と証言した。佐藤愛蔵陪審員は警察証人に「警察証人は簡単に誘導尋問をしないとか、被告人の言うところと違うと片付けてしまうけれども、被告人の陳述の秩序立っているのに反し、それでは余りにも物足りない。もっと我々が成るほどと頷けれるようには答弁出来ぬものか」と尋問し、小泉陪審員は「マッチ箱から指紋は採れなかったか、又採ろうとは思わなかったのか」と尋問し、警察証人は「濡れていて採れなかった」証言した。陪審員達は活躍したのである。
 
 陪審員は当時の有産階級で羽織袴姿で出廷し、裁判所内の宿舎に泊まり、夜は酒1本を供された。陪審制の採用と共に、司法部には別格予算が組まれ、陪審法廷や宿舎の建設が急がれた。昭和3年の世界恐慌、緊縮財政、軍事費の節減のご時世に、司法部は特需景気に湧いたのである。司法官試補の年俸が1000円から900円に減俸されたのに、陪審員日当は5円であった。
 同じ昭和3年普通選挙が実施され、人民はそれぞれの威儀を正して投票所に並び、無産政党からも当選者が出た。
 これらは大正デモクラシーの成果であった。このまま推移すればデモクラシーは勝利し、戦争など起きる筈もなかった。これを苦々しく見ていたのがファシズムであった。昭和3年治安維持法が制定されていた。モスクワから軍資金とピストルを持って帰国した国際共産党日本支部党員がロシア革命の再現、天皇一家と資本家の処刑を目的とする暴力革命を目指し、力不足の儘決起するものだから、続々と検挙された。治安維持法違反は陪審制の対象外であった。コミュニズムはデモクラシィーを敵視した。社会民主主義者を資本家の同盟軍と見なし、社民主要打撃論で攻撃し、社会主義運動に分裂を仕向けた。ファシズムとコミュニズムの戦いの中、デモクラシーと言論の自由が弾圧され、議会政治は大政翼賛会に変貌させられ、18年遂に陪審制は停止となった。
 陪審制はファシズムと戦争により停止された。
日本ファシズムはコミュニズムを打倒し、勢いを強めてデモクラシィーを圧殺し、中国を侵略し、英米デモクラシィーに挑戦し、日本を焦土として滅亡した。
 大正デモクラシーの復活、陪審の復活は当然のことである。

昭和陪審制廃止は、人気がなかったとか、国民性に合わなかったとか議論されているが、そうではない。17%の無罪判決を出しており定着していた。
 昭和3年から発足し、当初は年間60件あったが、次第に減少し、昭和10年は18件、昭和15年4件、昭和17年2件となっている。この理由は様々に議論されている。
 ひとつハッキリしていることは、当時被告人が控訴して反省の弁を控訴院(高裁)で述べると、控訴院は少し刑をまけてくれる慣例があった。だから控訴できない陪審裁判を弁護人が嫌い、被告人に陪審辞退を勧誘した。
 もう一つ、有罪の時、陪審費用が被告人負担とされていたことが指摘されている。しかし、私はこれは大きな理由ではないと思う。容疑者となった者の多くは貧困であり、そもそも訴訟費用は免除されたからである。
成果がなかったと批判する向きがある。
 とんでもない。17%の無罪率をあげ、94人を獄窓から解放した。当時の無罪率0.1%を考えると、陪審制でなければ、93人は下獄させられ、或いは処刑されていた。

3、大正デモクラシー
  昭和陪審制の立役者は、政友会の平民宰相原敬であった。彼の陪審制運動は、明治末から始まり、大正12年に陪審員法は成立した。しかし、彼は大正10年政治テロに倒れた。
 明治の自由民権運動では、板垣退助とか大隈重信が活躍し、憲法と議会を獲得し、人民の代表を議会へ送りこみ、議会は政府と司法部に対する監督を開始した。 全国から選挙された代議士は議会に集合し、お互いを何と呼ぶかを議論した。お主、お前、貴公、貴様、各地の方言が飛び交ったが、最終的には、君で収まった。同輩の意味を示すには、君しかない、と同意された。以来、議会では、板垣君とか大隈君と呼び合い、演壇では「人民の代表、代議士の同志諸君、薩長藩閥政府官僚の横暴を弾劾せよ」と演説したのである。
 原敬は明治末期の砂糖会社の疑獄事件で、警察の拷問捜査により、獄死者・自殺者が続出した揚げ句、無罪で終結した事件を痛感し、違法捜査と冤罪を防止する為にはアメリカ式の陪審制を導入するしかないと決断した。しかし、天皇制官僚の抵抗は強烈であり、愚民思想に毒する官僚や保守層を説得することは困難であった。
 原敬日記明治43年「訳もなく、検事警察官の為に拘引せられ、ひとたび拘引せらるるや必ず有罪の決定わ与えられる情勢なるは無論此の陪審員制度の必要を感ずる次第なれども、地方細民及び地方細民ならずとも、資金に乏しきものは、警察官、司法官などに無理往生に処罰されるは見るに忍びざる次第為れば、是非とも陪審制度は設置したきものと思うなり」
 彼は用意周到であった。官僚や保守層を弄するために詭弁さえ用いた。
 明治憲法第57条では、「司法権は天皇の名に於いて法律に依り裁判所之を行う」と書いてある。もしも、冤罪が発生すれば、天皇陛下の御名を傷付けることとなる、と。陪審制は被告人を冤罪から救う為ではなく、天皇陛下の御名を守る為である、と強調して、天皇崇拝の官僚と保守層を脅迫し、籠絡したのである。
 陪審の更新が制定されたのは、彼の妥協であった。明治憲法に「裁判官の裁判」と書いてあるから、最終決定者を裁判官にしないと憲法に違反するとの批判が強かったから、妥協したのである。裁判官は彼の妥協を理解していたから、陪審の更新はしたが、彼と陪審員に敬意を表して、二度目の無罪評決に対して二度目の更新を慎んだ。
 昭和陪審員制は警察の取調を改善した。取調した警察官が証人出廷して被告人の自白経過を証言する。地元の有産階級の名士達がじっと見つめており、やがて自白を拷問によるものとして無罪評決を下す。警察官は地元に帰って大恥をかき、村長から叱られた。 明治以来の冤罪史を読むと、昭和3年から18年まで冤罪がない。警察官は陪審員制に合わせて取調を紳士的に改めたのである。
 同時期、治安維持法が制定され、警察署に特高課が設置された。陪審員制は治安維持法違反事件には適用なかった。だから、特高課は思想犯に拷問を繰り返し、刑事課の警察官は特高課に対して冷たい視線で見つめていた。ある留置課の警察官は拷問に耐えている思想犯に男気を感じ、外との連絡役を引き受けたことがばれて免職になった。
 戦時中、男子と警察官は徴兵され、犯罪は激減した。
 戦後の混乱期、風紀は退廃し、その日の暮らしのための犯罪が激発したが、定員削減の警察官は多忙を極めた。証拠集めの外回りよりも容疑者を拷問していた方が楽だ、との昔の発想がよみがえった。もう陪審員はいないからだ。
 二俣事件、仁保事件、免田事件などを代表とする戦後直後の冤罪事件は、かくして激発したのである。
 最近、警察と検察庁の取調方法が紳士的になってきている。やはり、裁判員のお陰である。
 裁判員裁判制度が徴兵制だから反対と主張している人々も、陪審員と裁判員による警察官・検察官・裁判官に対する監視監督の効果は認めるであろう。弁護士に対する監視監督効果もある。あの弁護士は何をやっとると評判が立てば、客が逃げていく。被害者の実名を法廷で言わないことが約束されているのに、何度も読み上げた弁護士がいた。偉そうにしている紳士達の化けの皮が剥がされる。守秘義務を裁判員に課して、化けの皮を維持しようとする企みは止めた方がよい。人民の声を覆うことは出来ない。